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松平 宗武(まつだいら むねたけ)は、丹後宮津藩の第7代(最後の)藩主。本庄松平家10代。明治維新後に本庄氏に復し、本庄(または本荘) 宗武(ほんじょう むねたけ)と改めた。 == 生涯 == 弘化3年(1846年)6月9日、第6代藩主松平宗秀の五男として生まれる。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐で父は老中・幕府軍長州征討補佐を務めていたが、幕府軍の戦況不利を見て独断で長州藩の家老を釈放するなどしたことから、幕命により10月29日に強制隠居処分に処せられ、宗武が家督を継いだ。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では宮津藩は新政府に恭順し、山城八幡の警備を命じられたが、八幡警備に出陣した部隊が新政府軍に発砲したため、朝敵とされた。これにより在洛していた宮津藩兵は武装解除され、1月10日、宗武は入洛禁止の処分を受けた。1月23日、国元の重臣は西園寺公望率いる山陰鎮撫使に降伏している。2月11日、重臣は宗武の弟の新政府軍参加を申し入れる。2月24日に父宗秀が上洛し、謝罪と宗武の隠居を申し入れたが、宗武の隠居と宗秀の再相続は認められなかった。また、鳥羽・伏見の戦いの責任者として重臣2名の切腹を申し入れているが、長州藩からの申し出によって長州征伐時の宗秀の長州家老釈放の功と引換に助命されている。4月29日に上洛し、5月23日、謹慎を解かれた。9月1日、新政府に2万両を献金する。 明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により宮津藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で知藩事職を免職された。1873年(明治6年)からは開拓使として北海道の農業開拓に従事した。 1875年(明治8年)、教部省大講義及び籠神社宮司に就任した。この頃、旧宮津藩士・小室信介らによる「天橋義塾」設立を援助している。 1884年(明治17年)、子爵に列した。 1888年(明治21年)、山岡鉄舟、鳥尾小弥太、川合清丸らと「日本国教大道社」を設立し、大道社の副社長となった。 1893年(明治26年)4月28日に死去。享年48。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平宗武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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