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松平 定則(まつだいら さだのり、1793年9月2日(寛政5年7月27日) - 1809年8月15日(文化6年7月5日))は、伊予松山藩10代藩主。定勝系久松松平家宗家11代。 9代藩主松平定国の次男。母は靖操院殿(藤田氏の娘)。正室は白河藩主・松平定信の娘。幼名は立丸。または辰丸。官位はなし。 == 生涯 == 寛政5年(1793年)7月27日生まれ。長兄・元之丞の夭折により、寛政6年(1794年)嫡男となる。文化元年(1804年)、父の死去により家督を継承。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌年(1805年)には、松山二番町横町に初めての藩校興徳館を設立。杉山熊台を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年(1808年)には、菩提寺のひとつ松山法龍寺の寺格を高めた。同6年(1809年)7月3日、病床に伏し弟勝丸(松平定通)を養嗣とし、同5日江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年20(17歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田済海寺に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平定則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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