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松平 容敬(まつだいら かたたか)は、陸奥会津藩の第8代藩主。会津松平家第8代。 == 生涯 == 享和3年12月23日(1804年2月4日)に常陸国水戸藩の徳川治保の次男・保友(後の松平義和)の庶子(三男)として生まれる。文化元年(1804年)に父が尾張藩連枝の高須藩を相続するにあたり、その扱いが問題となった。 他方、会津藩では文化2年(1805年)に容頌と容住の両藩主が立て続けに死去し、他に後継者がいないこともあり、3歳の容衆が相続した。幼児死亡率の高い当時において、場合により無嗣断絶の危険すらあるため、会津藩家老の田中玄宰は義和のこの庶子を万一の備えとして引き取りたいという申し出て、極秘のうちに引き取られた。 こうして文化3年4月28日(1806年6月14日)、容住の死去後に白岩氏を母として出生した容衆の異母弟として幕府に届けられたのが容敬である。なお、『若松市史』では事実が、『会津松平家譜』などの公式史料では幕府への届出内容が採られている。 いわゆる保険的な存在であったが、田中玄宰の予感は的中し、容衆が嗣子なく没したので、その弟ということになっていた容敬が末期養子となり、文政5年(1822年)に家督を継ぎ、文政8年(1825年)に左近衛権少将に任じられる。 弘化3年(1846年)、高須藩主を継いだ次兄・義建の六男・容保に娘・敏姫を娶わせ、養嗣子とした。文政10年(1827年)、正四位下左近衛権中将に叙任。 嘉永5年(1852年)に死去した。公式上での享年は47。家督は容保が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平容敬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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