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松平 康定(まつだいら やすさだ)は、三河国の松平氏一族の人物。 #深溝松平家松平忠定の子、松平好景の弟で家忠日記の登場人物。西尾城に牧野貞成を攻撃した。勘解由左衛門尉康定勘解由左衛門尉康定(玄佐)。 #松平康孝(鵜殿松平家)の子で伯父松平信孝に横領されたため滅亡した人物。下郷鵜殿長信(八郎三郎康孝)の子と同一、若しくは混同されている人物。八郎三郎康定八郎三郎康定。 #三河国伊保城主松平康元の子で、加賀藩前田氏家臣で人持組松平大弐家祖。大坂の陣の際に同藩武者奉行を務めた松平伯耆康定。 #浜田藩主松井松平家8代当主。寺社奉行を務めた人物。下記を参照。 ---- 松平 康定(まつだいら やすさだ)は、石見浜田藩の第2代藩主。松井松平家7代。 == 生涯 == 延享4年(1747年)、旗本・前田房長の三男として生まれる。はじめ浜田藩の松井松平家の分家である松平康敬の養子となり、その家督を継いで300石の旗本となる。ところが本家の第5代藩主・松平康福に嗣子が無かったことから、明和5年(1768年)10月に婿養子として迎えられ、12月28日に従五位下・左京亮に叙位・任官する。 寛政元年(1789年)、康福の死去により、家督を継いで第2代藩主となる。このとき、周防守に遷任した。寛政4年(1791年)4月、所領のうち、石見の一部・伊豆・相模5000石が信濃高井郡・水内郡に替地となり、富竹陣屋を置いて支配した。寛政7年(1795年)12月に奏者番に任じられる。もともと文学肌の藩主であり、参勤交代の途上で本居宣長を尋ねて国学に浸透し、藩校・長善館を創設している。なお、財政再建をはかって造林業を推進したが失敗した。 寛政10年(1798年)5月、奏者番を兼任する形で寺社奉行に任じられる。文化4年(1807年)3月23日に江戸で死去した。享年61。跡を婿養子の康任が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平康定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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