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松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。越前福井藩(北ノ庄藩)第3代藩主〔公式には福井藩第3代に数える忠昌以降を(相続時の混乱から)別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばその系統の初代となる。〕。初代藩主結城秀康の次男で、第2代藩主松平忠直の同母弟。 == 生涯 == 1598年1月21日(慶長2年12月14日)、大坂に生まれる。幼名は虎松、虎之助。5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。慶長12年(1607年)、祖父の徳川家康、叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育された。叔父にあたる徳川頼房と同じく、慶長12年(1607年)に家康側室の英勝院の猶子となり、同年11月、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。 武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。翌年の慶長20年(1615年)が近づく頃、徳川幕府と大坂の豊臣氏との最終対決が近づく気配を感じると、「年齢が若いために出陣許可が下りない」可能性を考慮し、直前の正月に急いで元服を済ませ、大人として扱われることを望んだ。望み通り、秀忠より偏諱(「忠」の字)を賜って伊予守忠昌と名乗って元服し、1月8日従五位下侍従に叙任した。2月には従四位下となる。出陣の許可を得ると、直後の夏の陣では他の兄弟と共に、兄の忠直軍の一角を占めて出陣した。夏の陣の際は、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。 この大坂の役の活躍により、同年末に常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封されている。〔交代で、高田藩主であった酒井忠勝が松代藩に移封。〕 元和9年(1623年)、2代将軍秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があったなどとされる兄・忠直が「不行跡」を理由に配流処分となった。その後幕命により、弟である忠昌が藩領のうち、越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」(幕府の命により忠直家臣団より幕府が選抜した)〔福井藩により編纂された雑記録(正式な藩史ではない)『国事叢記』によると「忠昌の北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣のうちの105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣は光長に随って越後高田藩臣となった。また老臣のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守のみ忠昌に出仕した。」とされ、忠昌の寛大さを示すとともに、幕府の選抜に漏れた家臣らは光長に同行したとも推測される。また、この叢記の記述中の「大部分の家臣」に関しては、忠昌相続時に他の兄弟(直政、直基、直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それらを含む諸藩に再仕官した家臣らもおり、選抜に漏れた残りの全てが高田藩に再仕官したわけではないという、史実との少々の相違に留意。例として、直良の立藩に従った津田信益や、幕臣となった島田成重がいる。〕を継承し、高田から随従の300騎を併せて新たに福井藩の家臣団を形成し、藩領を相続した。当初、甥で忠直の嫡子・仙千代(後の松平光長)の行く末を思いやった忠昌は相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は本家を相続することとなった。のち仙千代には新たに越後高田に26万石が与えられた。〔「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」(『越系余筆』井上翼章・文化3(1806)年 松平文庫蔵)とあって、光長が父忠直の旧跡を相続したと記述されることがあるが、寛政12年(1800年)に福井松平氏に対して幕府は同系図の修正を命じ、幕府の指示・見解に沿う形で福井松平氏では越前家の歴代より光長を排除する作為を系図に加えており、光長の一旦相続は幕府の公式見解ではなくなった。〕〔津山松平氏家譜 元和9年(1623年)2月10日条に、松平光長が「家督を承け祖父以来のノ遺跡一円領知スヘキノ旨を命セラル」(「越前支流美作津山松平」『徳川諸家系譜』第四)とあり、同年7月幕府国目付が北荘へ来着し、台命を伝達した奉書中に「忠直仕置等万事不相届故を以て越前国仙千代丸ニ被仰付」(同家譜 元和9年7月29日条徳川家光黒印状)とあり、忠直から光長への北ノ荘藩の継承があったと津山藩は主張していることが窺い知れる。『福井県史 通史編3・近世一』では「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」、「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」としているが、いずれも後世の幕府の公式な見解とは異なる。〕〔「寛永元年(1624年)甲子四月十五日以特命続秀康、賜封之内五十万石余」(「福井松平家系図」『福井市史 資料編4・近世二』)と記され、松平忠昌の高田からの移動は忠直配流の翌年、1624年であったことがわかる。当主不在となった北ノ荘藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れ、幕府から越前に島田重次、高木正次らが派遣され、光長の相続の許可に対する内示があったが、その後7月7月29日に幕府から秋元泰朝、近藤秀用、曽根吉次、阿倍正之等が派遣され、越前国の冬の気候の厳しさを理由に、仙千代ら母子は江戸に帰されることになった。翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により、忠直の次弟で当時越後高田藩主であった松平忠昌を忠直の後の北ノ荘藩主とすることが申し渡された。〕寛永3年(1626年)8月19日に正四位下参議となる。 寛永11年(1634年)第3代将軍徳川家光が大軍を率いて上洛した際、忠昌も上洛した。同年、領地朱印状を拝領し、それによれば同年8月時点での所領は50万5,280石である。のち、寛永14年(1637年)、弟の直良の越前木本藩から越前勝山藩への移転に伴い、幕府より木本藩2万5,000石の旧領のうち2万石を加増される〔残り5,000石は直良が持ち、勝山藩に併合した。〕。正保元年(1644年)には、同じく直良が勝山3万5,000石から越前大野藩5万石へ移った後の勝山3万5,000石を幕府より「預領」として預けられた。 寛永14年(1637年)の島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称する藩士12人を派遣した。寛永20年(1643年)異国船改めのため三国湊に番所を建てる。正保2年(1645年)8月1日、江戸の霊岸島の中屋敷にて死亡した。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。法名は隆芳院殿郭翁貞真大居士。墓地は永平寺〔殉死した家臣7名は忠昌の墓所の周辺に、忠昌を守護するように各々の墓が建てられている。ただし、そこに葬られたのは各々の頭部のみで、胴体以下は各々の菩提寺に葬られた。殉死7名の子孫は「先祖の功績」として、その後も福井藩で厚遇された。〕。また子の光通が開基となった大安禅寺にも、藩祖で父の結城秀康らと並んで墓がある。 忠昌の死後、福井藩は家督相続問題などから次第に所領を減封されていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平忠昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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