翻訳と辞書
Words near each other
・ 松平忠救
・ 松平忠敬
・ 松平忠昌
・ 松平忠明
・ 松平忠易
・ 松平忠昭
・ 松平忠昭 (大給松平家)
・ 松平忠昭 (藤井松平家)
・ 松平忠晃
・ 松平忠景
松平忠晴
・ 松平忠暁
・ 松平忠栄
・ 松平忠栄 (亀山藩嫡子)
・ 松平忠栄 (尼崎藩主)
・ 松平忠次
・ 松平忠正
・ 松平忠毅
・ 松平忠泰
・ 松平忠泰 (桑名藩嫡子)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

松平忠晴 : ミニ英和和英辞書
松平忠晴[まつだいら ただはる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

松平忠晴 : ウィキペディア日本語版
松平忠晴[まつだいら ただはる]
松平 忠晴(まつだいら ただはる、慶長3年(1598年) - 寛文9年3月23日1669年4月23日))は、駿河田中藩主、遠江掛川藩主、丹波亀山藩の初代藩主。伊賀守流藤井松平家初代。
松平信吉の次男。母は藤井松平信一の娘。同母兄に松平忠国。正室は豊岡藩主・杉原長房の娘(広島藩主・浅野長晟の養女)。子は忠俊(長男)、忠昭(次男)、忠周(三男)。官位は従五位下、伊賀守。
下総国布川にて生まれる。徳川秀忠から偏諱を授かり忠晴と名乗った。元和元年(1615年)に叙任される。元和5年(1619年)に常陸国土浦藩3万5000石のうちから2000石を父・信吉から分知される。寛永10年(1633年)、家光将軍の頃、書院番士を皮切りに奏者番など務めあげた。その働き振りを評価され、安房国に2000石、下総国に1000石を与えられた。土浦の知行も保持していたため、総石5000石である。そして寛永19年(1642年)8月には駿河田中において2万5000石の大名となった。
寛永21年(1644年)3月に遠州掛川に移封され、庶出の次男・千太郎を授かる。生母は側室・大野木氏(家臣の娘)。正保5年(1648年)閏正月には8000石加増の上で丹波亀山に移封された。同年8月には、近藩・丹波福知山藩主の稲葉紀通による乱心騒動にともない、城地受け取りの任を受けた。なお、月は判らないが、この年に正室を江戸藩邸で失っている。長晴院と贈り名された正室だったが、長男・忠俊を含め子女2人を儲けた。
万治4年(1661年)4月、丹波亀山において、三男・与十郎が誕生した。生母は側室・木村氏(家臣の娘)。
長男・忠俊没後、兄・忠国の五男・忠栄を養子としていた。だが、この忠栄を生家へ還し、寛文7年(1667年)に庶子の千太郎(長じて忠昭)を嗣子、順養子を三男・与十郎(のちの忠周)という幕府への願い出に対し認可が下りた。忠晴は御礼の進物を将軍家、老中たちへ献上している。そして、同年の閏2月9日、次男・忠昭に家督を譲って隠居し、忠山と号した。
寛文9年(1669年)3月23日に72歳で死去した。法号は良光忠山善徳院。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。
藩主・忠昭は忠晴死去の際、江戸出府の途上にあったため、丹波亀山から松宮新五左衛門が馬を飛ばし、伊勢で追い着いて上申した。訃報を知った行列は急遽、引き返したという。
== 関連項目 ==

* 松平忠勝 - 桜井松平家紀州藩士。





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平忠晴」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.