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松平忠馮 : ミニ英和和英辞書
松平忠馮[まつだいら ただより]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

松平忠馮 : ウィキペディア日本語版
松平忠馮[まつだいら ただより]

松平 忠馮(まつだいら ただより)は、肥前島原藩の第2代藩主。島原藩深溝松平家8代。
== 生涯 ==
明和8年(1771年)5月6日、第6代藩主(当時は下野宇都宮藩の第2代藩主)・松平忠恕の六男として生まれる。兄たちは庶兄で他家に養子入りしたため、正室の子なので世子となり、天明7年(1787年)12月18日に従五位下・主計頭に叙任される。寛政4年(1792年)、父が雲仙岳眉山の大爆発による心労で急死したため、家督を継いだ。
忠馮は雲仙岳の爆発による領民の救済のため、幕府から1万2,000両を借用し、さらに衣類取締令・奢侈禁止令などを出して出費を抑制し、苦しくなっていた藩財政の再建も目指した。文化期に入ると外国船の来航が問題になり始めたため、海防の強化を行なっている。しかし相次ぐ天災や海防問題などから財政はさらに悪化したため、忠馮は橋爪宗平板倉勝彪を登用して藩政改革を行なった。文化7年(1810年)6月には三府会議制を創設し、これにより大坂商人との取引などを行なった。文化8年(1811年)には国産方役所を設置して専売制を始め、文化9年(1812年)には公事方役所を設置して裁判の迅速化を図った。
文化13年(1816年)、板倉勝彪が「御内定書上表文」を提出し、財政再建のために家臣団のリストラが必要であると訴えたが、忠馮は存命中は受け入れなかった(死後の文政8年(1825年)からリストラが始まる)。農民政策に関しても、文化11年(1814年)に農民永保法を制定して百姓関係の土地整理を行なった。学問関係では、寛政6年(1793年)9月に藩校・稽古館を創設している。
このように改革が実りつつあった中での文政2年(1819年)1月28日に死去した。享年49。家督を四男の忠侯が継いだ。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平忠馮」の詳細全文を読む




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