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松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、播磨明石藩第8代藩主。直良系越前松平家9代。 11代将軍・徳川家斉の二十六男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。同母兄に越前福井藩主となった松平斉善、武蔵川越藩の嫡子である松平斉省がいる。 == 生涯 == 天保11年(1840年)、播磨明石藩主・松平斉韶の養嗣子となり、家督を相続して藩主に就任した。斉韶の嫡子である直憲(のち慶憲)を退けての強引な藩主就任であった。慶憲の生母・季遠姫はこれを嘆いて憤死したとも自殺したともいう。将軍の子が藩主になったことで、藩の石高は6万石から8万石に加増された。しかし、斉宣はさらに10万石への加増を老中らに求めたといわれ、この要求によって8万石でありながら10万石格という複雑な事態が発生した。また、将軍の子であるが故に莫大な支出を要し、財政難にますます拍車がかかることとなった。 天保15年(1844年)、病気で重篤になり、嗣子がなかったために先代斉韶の嫡子・直憲が世嗣に立てられた。享年20。 ※日付は旧暦 *1837年(天保8年)3月9日、従四位上に叙位。侍従任官。兵部大輔兼任。 8月25日、左近衛権少将に転任し、兵部大輔兼任如元。 *1840年(天保11年)2月26日、家督相続し、明石藩主となる。 11月1日、石高10万石格となる。 ※参考文献:児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版 1989年再版 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平斉宣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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