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松平 斉承(まつだいら なりつぐ)は、越前福井藩の第14代藩主〔一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第12代となる。〕。 == 経歴・人物 == 文化8年(1811年)2月11日、第13代藩主・松平治好の三男として福井で生まれる。文化14年(1817年)9月、第11代将軍徳川家斉(治好の従兄弟にあたる)の娘・浅姫と縁組、文政2年(1819年)11月に結婚した。文政7年(1824年)3月28日に元服、岳父・家斉より一字を拝領して、伊予守 斉承と名乗る。同時に従四位上侍従に叙任。翌文政8年(1825年)に父が死去したため、更に翌年の文政9年(1826年)1月22日に家督を継いで藩主となる。同年12月16日、左近衛権少将に任じられ、同19日には越前守と名乗りを改めた。 文政10年(1827年)から5ヵ年の倹約令を出し、文政12年(1829年)には7ヵ年の家臣の知行半減を行なって藩財政再建を目指したが、祖父や父と同じように贅沢で奢侈を好み、福井城本丸に贅沢な御殿を建設したりするなどして藩財政を悪化させた。さらに米価高騰、疫病(天然痘)の流行なども藩を苦しめる一因を成した。 天保6年(1835年)閏7月2日、江戸で死去した。享年25。死因は痢病と言われる。 実子は全て早世していたため、家斉の子(正室浅姫の異母弟)である斉善が養子となって跡を継いだ。 近江彦根藩との領地交代転封を画策し、失敗したとも伝わる。この際の遺恨が、幕末期における藩主である松平春嶽(慶永、斉善の養子)と大老となった彦根藩主井伊直弼との対立の遠因になっているともされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平斉承」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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