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毛利 元重(もうり もとしげ、延宝4年(1676年)- 宝永3年8月12日(1706年9月18日))は、長州藩2代藩主・毛利綱広の五男。母は梨木永祐の娘・昌寿院(房子)。5代藩主・毛利吉広の同母弟。福井藩7代藩主・松平昌明(のちの吉品)の養子。官位は従四位下・大監物。後に監物。息子に大野毛利家を継いだ元直がいる。 == 生涯 == 幼名は長吉。元禄3年(1690年)7月5日、跡継ぎのいなかった松平昌明(のちの吉品)の養子となる。これは、父の綱広が結城秀康の外孫(すなわち長吉が昌明と同じく秀康の曾孫)であったこと、また昌明自身が異母兄(綱広の長男で長吉の長兄)・吉就の母方の伯父にあたるという縁によるものであった。この時に松平昌盛(まつだいら まさもり)、のちに松平昌方(- まさかた)に改名する。同5年(1692年)2月15日、従四位下・大監物に叙任する。同12年(1699年)7月、多病との理由により養子縁組を解消し、実家に戻る(5月末に離縁し、6月1日に毛利復姓とも)。この離籍以後は毛利元重を称す。また、通称を監物とし、宍戸権之助を付役として江戸青山の長州藩江戸藩邸中屋敷や萩城下で過ごした。宝永3年(1706年)日死去。享年30。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利元重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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