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松平清宗 : ミニ英和和英辞書
松平清宗[まつだいら きよむね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 

松平清宗 : ウィキペディア日本語版
松平清宗[まつだいら きよむね]

松平 清宗(まつだいら きよむね、天文7年(1538年) - 慶長10年11月10日1605年12月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将徳川氏の家臣。松平清善の子。正室は深溝松平家好景の娘。松平家清の父。通称、與次郎。玄蕃允。
== 来歴 ==
竹谷松平家の武将として徳川家康に仕える。永禄5年(1562年)、今川離反の家康に同調して、上ノ郷城攻略戦に参戦しただろうが、父・清善の事績に隠れて働きが見られない。同6年(1563年)、三州一向一揆鎮圧戦に参戦、その武功から陽の目を見る。上ノ郷城攻略戦以降に家督を譲られたか。
永禄7年(1564年)、家康による三州東部の拠点・吉田城攻略戦に参戦。龍拈寺口での戦闘では2ヶ所に被傷するも、首級5つを挙げる。
永禄11年12月(1568年)、家康が遠州へ侵攻するとこれに応じた。
当時の三河軍団編成としては、西の中核・岡崎城に対し東の中核が吉田城。吉田城代・酒井忠次の指示を仰ぐ諸豪の中に清宗の竹谷松平家も組み込まれていた。そのため、遠州征服戦における家康の本隊は浜名湖東岸の曳馬城奪取を第1目標としたのに対し、酒井忠次ら支隊は別行動、浜名湖西岸の早期制圧が第1目標であった。
元亀元年6月29日1570年)、江州姉川戦へ参戦。
天正3年5月21日1575年)、長篠の戦いには酒井忠次の奇襲隊として参戦。同10年(1582年)、家康の駿州併呑後には興国寺城に2,000貫で配され、与力50人も付される。ただし、小牧・長久手の戦いには嫡子・家清ともども参ぜず、興国寺城に留まって相州後北条氏に備えた。
同18年(1590年)、小田原征伐に参陣。この時の家康勢の陣立てとしては、家康本陣の前に「全備」。「全備」の前に「二の先手」、さらに前が「一の先手」。清宗の竹谷(もしくは興国寺)衆は「二の先手」7組の中に組み込まれ、7組の最左翼を務めた。
翌19年(1591年)、戦勝に伴う三河軍団の関東国替え。清宗は武州児玉郡八幡山1万石の領主となる(厳密には八幡山藩の藩政を嫡男である家清の代わりに行っていた)。居城は雉岡城といわれ、8~9月頃の入封らしい。まず、入封後の施策としては
“この年いっぱいまでに領内へ転住してきた住民へは、次年の諸税免除”
を約して領民の増加を図ったという。また、嫡子・家清への家督禅譲は、この八幡山領有時で入封後、間も無くしてからといわれる。
慶長5年(1605年)、関ヶ原の戦い以後の転封先である三州吉田城3万石で余生を送っていたが、死去。一説に68歳と伝わる。戒名、龍興院華翁全栄。吉田城下には菩提寺・全栄寺が創建され、そこに葬られた。
子は家清の他に、清定がいた。嫡子・家清、孫の忠清に家康父子の一字を許されているのは、清宗が家康を積極的に支持し、数々の武勲を挙げてきたことに因るものと考えられている。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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