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松平 綱国(まつだいら つなくに、寛文2年(1662年) - 享保20年3月5日(1735年3月28日))は、越後高田藩の世嗣。 松平忠直の次男・永見長頼の長男。幼名は万徳丸。永見市正。官位は従四位上、侍従、三河守。子は安藤国近。 == 生涯 == 延宝2年(1674年)、越後高田藩嫡子の松平綱賢が子のないまま死去したため、叔父の永見長良や光長の妹を母とする小栗長治と世継ぎの座を争い、伯父の高田藩主・松平光長の世嗣となる。 第4代将軍・徳川家綱より偏諱を許され、松平三河守綱国を名乗る。そのままいけば、越後松平家当主を継承出来るはずであった。 しかし越後騒動で養父の松平光長が処罰され、高田藩が改易になり、世嗣であった綱国は備後福山藩にお預けとなった。やがて赦免されたが、綱国は光長と不和になっており、元禄6年(1693年)に病を理由に松平家を廃嫡され、代わって遠い血族から宣富が迎えられ世嗣となった。 廃嫡後、松平家の転封にあわせて美作津山に移り、宮川御殿と呼ばれた屋敷に住んだが、病を理由に藩の要職には就かなかった。宝永5年(1708年)には出家して更山と号し、享保20年(1735年)に74歳で死去した。 子孫は永見姓に改姓し、以後津山藩家老の家系として存続し、明治3年(1870年)に松平氏へ復姓した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平綱国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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