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松平 輝貞(まつだいら てるさだ)は、江戸時代中期の大名。側用人、老中格。大河内松平家の上野高崎藩主では初代。高崎藩系大河内松平家2代。 == 生涯 == 武蔵川越藩主・松平輝綱の六男。延宝2年(1674年)に武綱と名乗り、天和2年(1682年)6月23日、元服と同時に輝貞と改名した。養父の信興は松平信綱の五男、輝綱の弟で、当初養子として旗本松平信定(信綱の四男)の子である斐章を養子としており、将軍御目見なども済ませていた。しかし、斐章は元禄2年(1689年)に廃嫡され、代わって嫡子となったのが輝貞である。元禄4年(1691年)、家督を相続する。のちに輝貞は斐章の弟である輝規を養子とする。 家督相続以前より5代将軍徳川綱吉の小姓、側衆として仕え、初代の側用人に昇る。重用され、幾度か加増を受け、最終的に7万2000石を安堵される。しかし徳川家宣が6代将軍になると、家宣は綱吉側近を排除する政策を打ち出した。輝貞も側用人を免職され、越後国村上に転封、事実上左遷された。のちに徳川吉宗が8代将軍になると享保2年(1717年)、再び高崎に復帰し、同時に家格も溜詰格に昇格した。さらに享保15年(1730年)には老中格に任命された〔享保2年(1717年)9月23日からの就任とする説あり。〕。経験と実務能力を評価されたとされ、重用された上での老中格としての活動期間は長期にわたることとなる〔「石高が少々高かった(老中平均は5 - 6万石前後)」「側用人出身である(吉宗は側用人排除が政治方針)」のために老中格に留め置かれ、(正)老中には昇進できなかったとされる。〕。 延享4年(1747年)に死去した。墓地は東叡山明王院(東京都台東区)、のち平林寺に改葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平輝貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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