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松平頼安 : ミニ英和和英辞書
松平頼安[まつだいら よりやす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

松平頼安 : ウィキペディア日本語版
松平頼安[まつだいら よりやす]

松平 頼安(まつだいら よりやす、1856年2月15日(安政3年1月10日) - 1940年昭和15年)2月7日)は、明治時代から昭和時代初期の華族。神官。従二位
常陸宍戸藩の第8代藩主、第10代藩主・松平頼位の二男。兄は第9代藩主・松平頼徳。妹の高は作家・三島由紀夫曽祖母にあたる。
== 生涯 ==
1856年(安政3年1月10日)、父・松平頼位常陸宍戸藩・第8代藩主、第10代藩主)と母(側室。佐々木氏の娘)との間に二男として生まれる。25歳上に兄・松平頼徳(第9代藩主)と、24歳上に姉・雪がいた。頼徳と雪は正室・松平絲(実父は水戸藩主・徳川宗翰の八男・松平保福)の子。頼安と同腹の姉妹や弟には、珽、高、松平頼平、艶、鋭がいる。
1864年(元治元年)、水戸藩にて天狗党の乱が起こると、兄・頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められ、10月5日に切腹。享年35。父・頼位も連座で拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。1868年(慶応4年2月)、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、頼位が再相続する。1869年(明治2年)、頼位の版籍奉還願いが受理される。
松平啓(実父は松平頼顕。義父は讃岐高松藩11代藩主・松平頼聰)を正室とする。のち小河原台子(小河原将雄の娘)を継室とする。台子との間に、長女・恒子(1884年生)、長男・ 頼敏(1898年生)、二女・照代(1925年生)を儲ける。頼敏は1926年に28歳で早世。水戸・徳川圀順の三男・圀秀(1916年生)を養子とする。のち長女・恒子は青木清太郎に嫁ぎ、二女・照代は染谷亨の養女となる。
1880年(明治13年)7月、頼安は、父・頼位より家督を譲られ、1884年(明治17年)7月8日、子爵に叙された。1887年(明治20年)12月26日に正五位。1892年(明治25年)に従四位。1903年(明治36年)に従三位。1912年(明治45年)に正三位。1922年(大正11年)に従二位を賜わった。その間の1898年(明治31年)には上野東照宮社司、1904年(明治37年)には芝大神宮社司を兼ねる。1905年(明治38年)には亀戸天神社社司も兼ねた〔越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)〕。
1935年(昭和10年)、養子の圀秀(水戸・徳川圀順の三男)に家督を譲り、1940年(昭和15年)2月7日、東京府北多摩郡東村山町にて死亡。享年85。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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