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初代松旭斎 天一(しょうきょくさい てんいち、1853年2月 - 1912年6月14日〔「松旭齋天一没す」東京朝日新聞 明治45年6月16日『新聞集成明治編年史 第十四巻』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕)は、日本の奇術師である。福井城下(現在の福井県福井市)生まれ。本名は服部 松旭(はっとり しょうきょく)、幼名は牧野 八之助(まきの はちのすけ)。 「日本近代奇術の祖」であり、松旭斎派の祖。弟子で養子に松旭斎天二(二代目松旭斎天一)、松旭斎天勝、松旭斎天洋、松旭斎天秀(柳妻麗三郎)らがいる。 父は福井藩の国家老・狛家の家臣で剣術師範の牧野海平。家が断絶となり、万延元年(1860年)に阿波在住の叔父が住職を勤める西光寺に預けられたが、両親が相次いで病没、得度して瑞山と名乗る。以降いくつかの寺を放浪。維新のころには淡路で浮れ節の前座で、講釈を始める。その後、土佐の剣渡りの太夫となるが、紀州で火渡りに失敗。 明治9年(1876年)に阿波に戻り、服部松旭と改め戸籍を得る。大阪の見世物小屋で柳川蝶玉斎の西洋手品を見て感動、大阪で貿易商を営み、興行や見世物も行っていたイギリス人ジョネスと知り合い、西洋手品を学ぶ。 明治11年、ジョネスと上海へ巡業。西洋と中国の手品を学び、翌年帰国。大阪千日前の興行師奥田弁次郎の手で、イギリス帰りと偽り手品を行う。当時人気絶頂の帰天斎正一にあやかり、芸名を松旭斎天一と改め、明治13年に天一一座を旗揚げ。「切支丹バテレンのハリツケ」や大礼服姿で演じる「陰陽水火の遣い分け」(水芸)で評判をとる。同年結婚後、阿波に戻り、後年海外で話題となる「サムタイ」を演じたりする。以降人気が上がり、十数名の一座で、明治18年には道頓堀の角座や東京浅草猿若町の文楽座(許可の関係で「文楽亭」と改称)で興行する。当時としては飛び抜けて高価な一円という入場料を取って、「三剣バクス積入」などの大掛かりな奇術で大成功を収めた。天一はスライハンドよりも大仕掛けの奇術を得意とし、「十字架の磔」「噴水自在の術」「大砲芸」などを見せた。また、「手妻」「法下」「手品」等の総称として「奇術」という用語を定着させる。台覧公演や天覧公演もたびたび行った。明治33年に一座を解散し、天一、天二、天勝の師弟三枚看板で欧米を巡業する。 著書に「西洋手品種明し」がある。 2012年8月には、福井市で没後100年記念奇術大会が開催された。同年5月27日には日本奇術協会により福井市大名町交差点に没後100年記念の石碑が建立された。 ==脚注== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松旭斎天一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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