翻訳と辞書
Words near each other
・ 松本尚子
・ 松本尚樹
・ 松本尚裕
・ 松本山雅
・ 松本山雅FC
・ 松本山雅FCの年度別成績・歴代監督一覧
・ 松本山雅FCの年度別成績一覧
・ 松本山雅FCの選手一覧
・ 松本山雅SC
・ 松本山雅フットボールクラブ
松本山雪
・ 松本岳
・ 松本峠
・ 松本峠 (熊野市)
・ 松本崇寿
・ 松本嵩春
・ 松本嶺男
・ 松本巍
・ 松本川
・ 松本工業学校


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

松本山雪 : ミニ英和和英辞書
松本山雪[まつもと さんせつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本山 : [ほんざん]
 【名詞】 1. head temple 2. this temple 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ゆき]
 【名詞】 1. snow 

松本山雪 : ウィキペディア日本語版
松本山雪[まつもと さんせつ]
松本 山雪(まつもと さんせつ、天正9年(1581年)?〔山月の子孫の家に伝来し、6代目彦右衛門正純が記した「松本家系図」にある「行年九十六歳」から逆算。これなら松本山雪は狩野山雪より9歳年長となり、先に松本が山雪と名乗っていれば、京狩野の2代目と同号を用いた理由も理解しやすくなる。しかし、同時代に例が全くないとはいえ長寿にすぎ、またこの記載自体後12代目の書き入れのため信憑性のほどは判別し難い。ただし現存作品から判断すると、山雪が相当長寿だったのは確かなようだ。〕 - 延宝4年11月23日1676年12月27日) は、日本の江戸時代前期の絵師。本名は恒則。初名は庄三郎。岨巓(そてん)、心易とも号した。同時代人の狩野山雪と画名・画風が似ているため、しばしば混同されるが別人である。伊予松山藩御用絵師で、の絵を得意とした。
== 略伝 ==
近江滋賀県)出身、松本姓から本貫大津松本村の可能性が高い。家系図によると、山雪の父は黒田家家臣の松本能登長光の弟・松本彌兵衛長則で、紀州藩に仕えるも浪人し、後に藤堂高虎に仕えたがその後またも浪人したという。若き日の山雪は京都に住み、狩野山楽かその周辺で画技を磨いていたと推測される。1635年寛永12年)に伊予松山藩愛媛県)主・松平定行に従って松山郊外の浮穴郡南土居村郷松本庵に移り、2人扶持を得て御用絵師となる。共に同様の扶持米を貰っているのは、大工植木屋であることから、山雪は藩の正式な家臣というより、技能者の一員としてその都度画用を務める比較的自由な立場だったようだ。その住まいは地元で「松本屋敷」と呼ばれた。時折定行が立ち寄ったとされ、現在も居住跡が残る。
松山藩で藩主が交代しても定行に仕え続け、跡取の養子・山月共々、東野御殿の吟松庵へ出向いてお茶の相手をしたという。延宝4年(1676年)に逝去し、庵近くの万福寺境内に葬られた。
跡目は養子の松本山月が継いだ(3人扶持)。山月は現存作品が少ないが、代表作である「野馬図屏風」(香川県立ミュージアム、同名別図が金刀比羅宮にもある)や「八栗寺伽藍図」(高松市牟礼町・八栗寺蔵)山雪の画風を受け継ぎつつも独自の展開を見せた力のある絵師だった。しかし、山月の子・茂助則恒の代で絵師は廃している。松本家はその後、6代目彦右衛門正純の代に松平定則小姓として取り立てられ、最終的に百石取りの小山奉行に出世している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松本山雪」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.