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松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto〔Ichioka, Yuji and Gordon H. Chang and Eiichiro Azuma, 2006, ''Before Internment: Essays in Prewar Japanese American History'', Stanford Univ Pr, p.192.〕、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官、明治大学教授などを務めた。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 == 生涯 == === 生い立ち === 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ〔『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』、p219-222、261-262、373-374、383-387、459〕。アメリカに落ち着くまもなく父が他界〔#フィッツ、p71-72〕。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった〔。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した〔。多くの文献で同チームの創設は銭村健一郎とする物が多いが、ロバート・K・フィッツ著『大戦前夜のベーブ・ルース』では、創設は松本(以下、松本)で、銭村がこのチームに参加するのは翌1920年と書かれている 〔。松本は長くこのチームに在籍することなく、パサデナに引っ越し、苦学してマサチューセッツ工科大学(MIT)航空工学部に進学〔。しかし将来敵になるかも知れない日本人学生に最先端技術の秘密を教えることはできないと差別され、自ら退学を余儀なくされた〔。複雑な家庭環境のためアメリカ国籍が取れず、3番目の父が死んだこともあって1923年、22歳で帰国し旧制広陵中学に編入した。再び日本名を名乗る〔。年は大きく違うが同級の加藤喜作、銭村辰巳らと野球部で活躍〔1921 〜 1930 - 広陵高校野球部 〕。しかしあまり上手くなく、広陵中学が全国大会初出場(第9回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場))した同年、メンバーには入れずマネージャーとして参加。五年時には9番センターでレギュラーとなるが、第10回全国大会の山陽大会準決勝で、この年初の全国制覇を果たした石本秀一監督率いる広島商業とあたり惜敗した。なおこの年、松本が作った広陵高校野球部の応援歌は当時としては珍しい英語の応援歌で現在も残るが〔、全編英語詞のため〔ベースボールマガジン、1977年7月号、p206-207、大道文(田村大五)「歴史再発掘 プロ野球の謎とロマン② 幻の天才走者・田部武雄」〕、今は歌える人がいないといわれている。 卒業後明治大学に進学。進学年が分からないが、銭村健一郎が「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」を率いて1924年・1927年に来日できたのは、松本に働きかけによるものなので〔1924年には明治大学に在籍していたと思われる。健一郎の従兄弟、銭村辰巳が明治大学に進学し、明治大学硬式野球部に所属するようになると明治大学とフレズノ・アスレチック・クラブとの関係はさらに深まった〔。1927年のニグロリーグ「the Philadelphia Royal Giants(フィラデルフィア・ロイヤルジャイアンツ)」の日本遠征に当たっては、松本と銭村が主催者のロン・グッドウィンに手を貸した〔。1929年には銭村の音頭で明治大学野球部がカリフォルニアに遠征した〔。松本は古賀政男、三木武夫とともに明治の三大名物男と呼ばれた〔。三木とは生涯に渡り交友を持つ〔三木睦子『信なくば立たず 夫 三木武夫との50年』、講談社、1989年、p234-235〕。三木睦子の著作に「三木武夫にとって松本瀧藏、平沢和重、福島慎太郎は、学生時代からの三人の親友」と書かれている〔。1927年、ポール・ラッシュの発案で発足した明治、早稲田、立教、東京商科、慶応の五大学の英語会(ESS)大学連盟共同代表〔山梨日日、p57〕。明治大学硬式野球部でもマネージャーを務め、アメリカから野球の専門書を原書を取り寄せ、自ら翻訳し選手たちに講義し、ミーティングを徹底し理論野球の追求に貢献した〔菊池清麿『天才野球人 田部武雄』彩流社、2013年、37頁〕。ロバート・K・フィッツ著『大戦前夜のベーブ・ルース』では、明治大学硬式野球部監督に就任したと書かれている〔。1929年、明治大学は岡田源三郎監督下で異例の世界一周をした。この時も得意の英語で大いに働く。運動と勉強をよく両立、あまりの英語力を教授に惜しまれ大学院に残る。ポール・ラッシュの知遇を得て、ラッシュの所属する聖公会の教えに深く帰依していた沢田美喜らと二世連合会を結成し、同会の会長を務めた〔。ラッシュとの親交から始まった二世連合会は、松本のアメリカ人脈を強化させた。スポーツを通じての国際交流という問題意識は、いつしか松本の生涯のテーマとなっていった。 アメリカンフットボールは、ポール・ラッシュと日本に留学した日系二世を中心に日本に導入されたものだが、松本はその中心人物であった〔山梨日日、p381-382〕〔「限りなき前進 日本アメリカンフットボール五十年史」(1984年9月)日本アメリカンフットボール協会、32、33、74、75、90頁 「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」井尻俊之、白石孝次共著、ベースボール・マガジン社、1994年、21、41-43、50-58、97、98、107頁 日本アメリカンフットボールの殿堂 | 公益財団法人キープ協会 関東学生アメリカンフットボール連盟:75周年記念特集 関東学生アメリカンフットボール連盟:75周年記念特集 川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代 スポーツ発展のカギとなった人物 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評 歴史が眠る多磨霊園 小川徳治 〕。ラッシュの所属する聖公会が、立教大学や聖路加国際病院の創設母体でもあったため、ラッシュは松本とはからって、立教大学と明治大学にアメリカンフットボールチームを、それぞれ誕生させた〔。1934年、フットボールのリーグ戦設立のためラッシュに協力を求めたのは松本であった〔川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」45 | 関西学院大学体育会アメリカンフットボール部 〕。明治、立教、早稲田により、東京学生アメリカンフットボール連盟が設立され、同年12月からリーグ戦をスタートさせた。初代理事長・ポール・ラッシュに次ぐ書記長(共同)を務めた〔山梨日日、p132〕。 大リーグがレフティー・グローブ、ルー・ゲーリッグらを含む"大リーグ選抜チーム"として来日した1931年には通訳として参加〔。1932年、東京六大学の野球部指導のため来日したモー・バーグと親しくなり、松本がバーグに日本語を教え、代わりにバーグが松本にフランス語を教えた〔#フィッツ、p70-73、215、216〕。明治大学の松本の英語の講義に、バーグがゲスト講師として招かれたこともある〔。また二人は西日本を一緒に旅行した〔。過熱する大リーグ人気で、日本の少年少女たちが1934年に来日したコニー・マック監督に送った手紙の返事は松本が書いた〔#フィッツ、p195〕。松本の翻訳によりマックは日本に親近感を抱いたといわれている(コニー・マック)〔。この1934年のベーブ・ルースやルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスらの"大リーグ選抜チーム"の来日時は、選手でない遠征団メンバーが観光に出かけるときには、松本ガイド兼通訳を務めた〔。1936年のベルリンオリンピックでは、日本体育協会の役員として参加し、幻となった1940年の東京オリンピック開催の招致運動にも尽力〔中村哲也『学生野球憲章とはなにか』青弓社、2010年、p135-136〕。このベルリンオリンピックでは、ヒトラーからハーケンクロイツをかたどった勲章も授与された〔。1937年にはモー・バーグの世話でハーバード大学に留学し、同大学大学院の経営科を卒業〔#フィッツ、p335-336〕〔市岡弘成・福永あみ共著『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンク クリエイティブ、2009年4月、p137、143〕。モーが1932年に初来日したとき、松本はモーに日本語を教え、植民地だった朝鮮に渡る渡航手続きの労をとってやり、その後も親交が深かった。モーは、1934年に来日した際、聖路加国際病院の屋上から東京市街一円を俯瞰撮影したことで知られるが、聖路加国際病院は、松本と親交のあったポール・ラッシュの所属する聖公会が経営母体であった〔。 ハーバード大学留学中には、ロサンゼルス領事だった福島慎太郎やニューヨーク総領事館に勤務する平沢和重らと親交を結ぶ〔。そのころ松本は、アメリカ人野球選手と親交があったにもかかわらず、日本の膨張政策の熱心な支持者になっていた〔。帰国後、日本女子大学教授、フィリピン国立大学交換教授、明治大学教授・理事を歴任した〔。明治の教授時代には広陵の後輩で、当時の六大学の花形選手だった田部武雄を苛めていた、という件が松木謙治郎の著書にある〔#タイガース球団、p153〕。田部は明治大学在学中は小西得郎宅に、巨人軍在籍時には松本宅に住んでいたという〔。1939年の第1回巨人軍フィリピン遠征に通訳として随行〔。1940年、海草中学の嶋清一がセネタースと契約するが明治に入学。大きな問題となったが、これを仲裁しセネタース側を折れさせたのは、松本から頼まれた鈴木龍二だという〔関三穂『プロ野球史再発掘 2 』ベースボール・マガジン社、1987年、p87、89〕。この他、占領軍(GHQ)経済科学局長・ウイリアム・F・マーカット少将の副官・キャピー原田に通訳として日本語の勉強を勧め、原田は松本の講義を受けた〔『プロ野球を救った男 キャピー原田』、p137、143〕。1945年の敗戦直前に、フィリピン大使館一等書記官だった福島慎太郎が引き連れて逃げてきたフィリピンのホセ・ラウレル亡命政権の面倒を、逮捕覚悟で見る〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松本瀧藏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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