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松本 育夫(まつもと いくお、1941年11月3日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本サッカー後援会現理事長。現役時代のポジションはFW。1968年のメキシコシティオリンピックにおけるサッカー競技で銅メダルを獲得したサッカー日本代表の一人である。 ==来歴・人物== ===選手時代=== 栃木県立宇都宮工業高等学校時代は、清水東の杉山隆一、広大附属高の桑田隆幸とともに"高校三羽烏"と言われ将来を嘱望された〔『週刊サッカーマガジン』2008年9月23日号 ベースボール・マガジン社、90-91頁〕。川淵三郎に憧れ早稲田大学第二政治経済学部経済学科に入学〔 し、ア式蹴球部に入部。1960年に日本代表として初選出された。野村尊敬、桑田隆幸、二村昭雄、森孝慈、釜本邦茂、大野毅らとア式蹴球部の黄金期を創った。1963年には日立(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。 1964年、東洋工業(現マツダ)へ入社し蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入部。下村幸男監督のもと、大学時代からのチームメイトである桑田、二村、大野の他、小沢通宏、石井義信、小城得達、桑原楽之、今西和男、船本幸路らその当時の日本代表選手たちとプレー。その中で松本は主に左サイドアタッカー/ウイングとして活躍し、特に桑田とは抜群のコンビプレーを見せた〔。新たに創設された日本サッカーリーグ(JSL)初年度の1965年から1968年まで4連覇に貢献〔 第8回 どこまでいっても男は | 東京偉蹴FOOTBALL 〕。 日本代表としては、長沼健監督時代には代表の常連となり、1964年東京オリンピック日本代表の選には怪我もあって漏れたが、1968年メキシコシティオリンピックで、今度は川淵三郎から右ウイングのポジションを奪い、渡辺正と同ポジションを分け合う形で日本代表の銅メダル獲得に貢献し、チームはFIFAフェアプレー賞も受賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松本育夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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