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松本 華羊(まつもと かよう、 1893年 - 没年不詳)は、大正から昭和初期にかけての女性日本画家。本名松本(和気)新子。 == 生涯 == 明治26年(1893年)東京に生まれる。父は銀行勤務を経て専修学校(現在の専修大学)、東京商業学校(現在の一橋大学)で簿記学を講義し『銀行簿記学』『商業簿記学』などを著した松本邁。 生来の虚弱体質に加え、2歳のときに家の2階から転落して足の自由を失ったため、学齢に達しても学校には通わず、家庭教師を通じて一般教養を身につける。17歳ごろ、京都の上村松園、大阪の島成園とともに「三都三園」として知られた女性日本画家・池田蕉園に入門、「蕉蔭」を名乗って作品制作を開始。他方尾竹越堂、尾竹竹坡兄弟にも師事。 大正2年(1913年)3月、第13回巽画会展に『かへり路』が入選して画壇デビュー、次いで『ばらのとげ』『池のほとり』『都の春』を発表。この頃より「華羊」の画号を用い始める。大正4年(1915年)1月、父・邁が大阪貯蓄銀行の監査役として迎えられたのに伴い大阪に転居、同年『たはむれ』『名残の春』『長閑』を発表。10月の第9回文部省美術展覧会(文展)では『青葉の笛』が入選した。 いっぽう同年秋から年末ごろにかけ、島成園のほか岡本(星野)更園(1895年-没年不詳)、吉岡千種(1895年-1947年)とともに創作グループ「女四人の会」を結成、翌大正5年(1916年)5月には井原西鶴の『好色一代女』の登場人物に取材した諸作を連ねた、同会の第一回展が大阪で開催された。この頃より日本画と並行して洋画、彫塑を学び、大正6年(1917年)2月には島らともに「泥人形展覧会」も開催。大正7年(1918年)頃の作とされる、「殉教(伴天連お春)」は、今日では彼女の代表作とされるが、同年の第12回文展では落選の憂き目を見た。 大正11年(1922年)頃、大阪毎日新聞記者・和気律次郎と結婚、武庫郡精道村(現在の芦屋市)打出や西宮市に居住。大正14年(1925年)1月には木谷千種、星野更園、三露千鈴らを会員、日本画家北野恒富、菊池契月らを顧問とする「向日会」結成に参加、その後も大阪女流展などに作品を出品するなど制作を続ける。戦後は豊中市に居住したが、青年期のものに比肩し得る評価を得た作品は生まれなかった。昭和32年(1957年)に描かれた肉筆絵葉書〔「島成園と浪華の女性画家」118ページに図版所収〕が現存するも没年は不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松本華羊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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