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松村 達雄(まつむら たつお、1914年12月18日 - 2005年6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった〔松村達雄 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年7月30日閲覧〕。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 ==来歴・人物== 1914年(大正3年)12月18日、神奈川県横浜市に父・武重と母・トエの3男2女の3男として生まれる〔キネマ旬報1979、p.538〕。父の武重はコロムビアレコードの取締役文芸部長だった〔キネマ旬報1979、p.537〕。大森区立山王小学校、暁星中学校を経て、1932年(昭和7年)に法政大学予科に入学〔。1934年(昭和9年)、演劇に興味を抱いた為に日本大学専門部芸術科に転学、1935年(昭和5年)に法政大学経済学部に復籍する〔。大学時代は一貫してラグビー部に所属し、左ウィングで活躍した。 1938年(昭和13年)、法政大学を卒業して同人劇団を結成。ついで新協劇団の研究生となるが、1942年(昭和17年)に応召され、満州・中支・南支などを転戦して1946年(昭和21年)に復員する〔。1952年(昭和27年)、高円寺に劇団五十人劇場を創設し、小山田宗徳・野呂圭介らと武者小路実篤作品を中心にモリエール作品なども上演するが、経済的に行き詰まり1957年(昭和32年)に解散する〔。 劇団解散後はテレビドラマに進出。『ダイヤル110番』『雑草の歌』『事件記者』『若い季節』などに出演し、自然な演技で人気を博す。映画には1959年(昭和34年)、佐分利信監督の『乙女の祈り』で初出演し、それ以来豊田四郎監督の『濹東綺譚』、小林正樹監督の『切腹』、山田洋次監督の『なつかしい風来坊』などに出演。黒澤明監督の『どですかでん』では、すさんだ中年男を好演した。山田洋次監督の『男はつらいよ』では、1972年(昭和47年)から同年に急逝した森川信の後を継ぎ、第9作『柴又慕情』から第13作『寅次郎恋やつれ』までの5作で2代目おいちゃん(車竜造)役を演じた。降板後も同シリーズには違う役柄で度々出演した。また、第6作『純情篇』では森川と顔合わせしている。 テレビドラマでは、大映ドラマ(『赤い疑惑』など)や『手錠をかけろ!』にも出演したが、1977年(昭和52年)からNHKで放送された『日本の戦後』では、主役と言っても良い吉田茂を演じ、そのソックリさが話題になり、新聞や雑誌の記事にもなり、代表作の1つになった。また、独特の声から声優やナレーションでも活躍し、声質が本田宗一郎(ホンダ創業者)に似ていることから、テレビ番組で声役を演じたこともあった。 1993年(平成5年)、黒澤監督の遺作『まあだだよ』で主役の内田百間を演じ、長い俳優生活の中で初の映画主演となる。黒澤によると、内田の遺族たちが映画を観て「そっくりだ」と言った。 1999年(平成10年)からどーもスポットでNHKのキャラクター・うさじいの声を担当している(うさじいのキャラクターも松村がモデルとなっている)。松村の死後は新たなCMは制作されず過去の作品を使用している。 2005年(平成17年)6月10日、間質性肺炎を患って東京都新宿区の病院に入院するが、退院間近の6月18日に心不全のため死去。90歳没。映画は磯村一路監督の『解夏』が遺作となり、4月にうさじいの声を自宅で収録したのが最後の仕事となった〔「男は-」2代目おいちゃん松村達雄さん死去 、日刊スポーツ、2015年7月30日閲覧〕。7月19日に増上寺でお別れの会が開かれ、十朱幸代、三國連太郎、黒柳徹子など225人が参列した〔松村達雄さん「お別れの会」、225人が参列 、ZAKZAK、2015年7月30日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松村達雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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