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松林 飯山(まつばやし はんざん、天保10年2月(1839年) - 慶応3年1月3日(1867年2月7日))は、幕末の大村藩士・儒学者。諱は漸之進、号は飯山、字は伯鴻、通称は廉之助。 == 経歴 == 父は大村藩医、松林杏哲〔松林杏哲 実父ではなく養父との説もある。〕。筑前早良郡羽根戸村に生まれ、やがて大村藩領蠣浦に移った。幼少の頃から神童の誉れが高く、郡奉行に見出され、嘉永3年(1850年)、12歳のときに藩主大村純熈に唐詩選を進講した。これをきっかけに藩士に取り立てられ、藩校五教館の表定詰となった。 嘉永5年(1852年)、純熈にしたがって江戸に出て、安積艮斎の塾に入門し、頭角を表し塾生の主席となった。安政4年(1857年)、昌平黌に入学、19歳の若さで助教に任命された。 安政6年(1859年)、大村に戻ると、藩は五教館の祭酒(教授)に任じようとしたが、飯山はこれを辞退し、次席である学頭となった。 万延元年(1860年)8月、純熈の命により大坂に出向き、藩邸に滞在しつつ京都の政情を探索した。大坂では、昌平黌の学友であった松本奎堂(後に天誅組総裁)、岡鹿門(岡千仞)と3人で雙松岡塾〔1943年、大阪中之島に雙松岡碑が建立されたが、現在は撤去され大阪大学に保管されている。〕を開いたが、勤皇思想の拠点のような観を示したため、京都所司代から問題視された。このため、塾は6ヶ月で閉鎖され、飯山も大村に戻った。 文久3年(1863年)10月、 五教館の祭酒となった。また、この頃から学問だけでなく、藩政へも参加するようになった。 文久3年12月頃、渡邊清左衛門、渡邊昇、楠本正隆らとともに勤王派を結成したが、これが後に大村三十七士と呼ばれる同盟に発展する。 慶応3年(1867年)1月3日、飯山は自宅近くで襲われ、絶命した。また同日、家老の針尾九左衛門も襲われ重症を負った。事件は佐幕派の犯行とされ、藩士1000人を動員した捜査が行われた。結局切腹2人、獄門・斬首26人という佐幕派の大粛清が行われた(大村騒動)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松林飯山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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