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松森 胤保(まつもり たねやす、文政8年6月21日(1825年8月5日) - 明治25年(1892年4月3日)は、幕末から明治の博物学者。 == 経歴 == 庄内藩士・長坂市右衛門の長男として鶴岡百人町(現・鶴岡市)で出生。幼名は欣之助、錬之助、源之助、通称嘉世右衛門。字は基伯、南郊を号す。幼少時より自然観察に優れ、海岸で綺麗な石を採集したり小鳥を飼育したほか、鉱物や昆虫、化石、石器、土器等に関心を寄せ、鳥の絵を数多く描いたのは12歳頃。13歳で藩校致道館に入り、儒学の素養に励むとともに書道にも才能を発揮する。14歳頃描いた鳥の図が「大泉諸鳥写真画譜」に残る。16歳で藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習い、この年の夏元服して名前を「胤保」と改めた。18歳で宝蔵院の槍術を学び、加えて居合、砲術、水練も習得。22歳で結婚するもまもなく離婚、32歳で藩医・松山道任知剛の長女鉄井と再婚、5男6女に恵まれる。 文久2年(1862年)2月、38歳で長坂家を相続、翌年6月出羽松山藩付家老に任ぜられる。元治元年(1864年)6月江戸詰めとなり、市中警備に当たる一方、小鳥屋や見世物小屋、書籍店などを回り、見聞を広める。家老職だけに許された猟銃も使えた。慶応3年(1867年)12月、江戸三田の薩摩藩邸焼き討ちで、庄内藩先鋒として松山藩兵の指揮を執った。慶応4年(1868年)4月、軍務総裁に任ぜられ、5月には奥羽越列藩同盟結成に当たり、7月庄内戦争が勃発すると、松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として出征、新庄、横手、角館等を転戦、いずれも勝利を収めた。この間の軍功により松山藩主から「松守」姓を賜るが固辞、「松森」とする。 戊辰敗戦後の明治2年(1869年)松山改め松嶺藩の執政、公儀人に任ぜられる。東京で写真機や顕微鏡を入手したのがこの頃。その後同藩大参事、松嶺区長、旧松嶺藩校里仁館惣管兼大教授、松嶺開進中学校長等を歴任、多難な戦後処理と新体制移行業務全般を司る。 明治12年(1879年)鶴岡に帰り、明治14年(1881年)山形県会議員、明治17年(1884年)酒田町戸長となるが、明治18年(1885年)7月病のため公職を辞す。晩年は研究著述に専念、奥羽人類学会会長として尽力し、明治25年(1892年)4月、鶴岡にて逝去。享年69。墓は鶴岡市禅源寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松森胤保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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