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松永 光弘(まつなが みつひろ、1966年3月24日 - )は、日本の元プロレスラー、実業家(飲食店経営)。有限会社ミスターデンジャー代表取締役。通称「ミスター・デンジャー」。 == 経歴 == 中京高等学校(現・中京大学附属中京高等学校)、中京大学出身。齋藤彰俊、紀藤真琴と同期。高校時代、相撲でインターハイベスト32。大学時代に久島海と対戦経験がある。相撲に見切りを付けたのには山響親方(元大関・朝潮、現在は高砂親方)が久島海を「大相撲にはあれぐらいの体のはざらにいる。」と辛辣に評したことが影響している。 空手に転じ、寛水流空手、誠心会館知多支部長(士道館杯にて全日本3位)を経る。 FMWの旗揚げに誠心会館所属として参戦、旗揚げ戦の1989年10月6日の名古屋市露橋スポーツセンター大会においてデビュー(対ビリー・マック戦)。 同年12月10日のFMW後楽園ホール大会で、ジェリー・ブレネマン(現 ジェリー・フリン)と組み、大仁田厚・ターザン後藤組と日本初の『有刺鉄線デスマッチ』を行う。 FMWへの継続参戦を望んでいたが、誠心会館の館長である青柳政司の指示によりやむなくパイオニア戦志に参戦。同団体が崩壊すると「先に新日に参戦していた青柳に、反旗を翻す」と云うギミックで新日本プロレスに参戦。角刈りの頭髪を金色に染めて栗栖正伸らと結託し、青柳からは(一旦は)師弟の縁を切られたものの、試合を殆ど組んでもらえず、結局は青柳との一騎打ちに敗れたのを機にフェードアウトする。 その後、齋藤彰俊を応援する目的で観戦に来たところ、選手間の乱闘に巻き込まれたのをきっかけに、世界格闘技連合W★INGに参加。当時、格闘技路線とデスマッチ路線といった、2つの方向性を辛うじて並行させていた同団体において、自身の活路をデスマッチに見出していく。 1992年2月9日、後楽園ホールにおけるザ・ヘッドハンターズとの試合中、対戦相手目掛けて2階バルコニー席からのダイブを敢行したことにより、「ミスター・デンジャー」と呼ばれるようになる。 以降も、破天荒な行動や、過激化の一途を辿ったW★INGプロモーションのデスマッチ路線の最前線に立つことで、同団体のエース格と目されるまでになった。 1993年夏、W★INGの放漫経営に愛想を尽かし、FMWに再び移籍。大仁田厚と敵対して幾度もデスマッチを行い、大仁田引退後は「新生FMW」のデスマッチ路線を支える。 1996年春、FMWを退団し、主戦場を大日本プロレスに移す。ここでは、主にW★ING時代に自身が考案しながらも、諸事情で日の目を見なかったデスマッチを次々と具現化させた。1998年9月23日、同団体で「ワニデスマッチ」を行うが、『対戦相手』のワニは1mほどの小型のものであり、リングの内外に大きな脱力と失笑をもたらす結果となった。その他、自らが飼育するピラニアやサソリを動員したデスマッチも行っている。大日本参戦中、BJW認定デスマッチヘビー級王座を2回獲得した。 この時期、大日本プロレスが新日本プロレスと対抗戦を行うが、松永は対抗戦を拒否している。なお、もし参戦した場合、1997年1月4日の東京ドーム大会でグレート・ムタとの対戦が決まっていた。 1996年11月17日、有明コロシアムでダン・スバーンとバーリトゥード戦を行うが、脇固めによりギブアップ負け。雑誌のインタビューでは「ムタから逃げたと思われるのが癪だったから」と答えている。 2000年、K-1に参戦し、3月19日の横浜アリーナ大会で、グレート草津とK-1ルールで対戦。1ラウンドKO負け。 その後大日本からも離脱し、しばらくリングを離れていたが、2005年10月9日、ZERO1-MAXに参戦。健在をアピールするも、佐々木義人に敗北しゼロワンより追放。1年後に再登場、2006年9月22日大森隆男vs村上和成戦に乱入し村上とタッグを結成したものの、10月27日の試合で仲間割れを起こす。11月11日村上と有刺鉄線デスマッチで対戦するもTKO負けを喫して再度追放された。試合中にはセコンドのHikaruを凶器で流血させたこともある。 2007年後半頃よりZERO1-MAX入団を大谷晋二郎(この年から社長に就任)に直訴。2008年1月24日、大谷と「入団査定マッチ」として「“地獄の針山”畳針デスマッチ」で対戦し敗北したが大谷からその戦い振りを評価され、2月8日ZERO1-MAXへの入団を果たした。しかし松永はすぐに大谷を襲撃し、デスマッチでの決着戦をアピール。5月17日の埼玉桂スタジオ大会で、大谷と「ガラスレイン鉄球地獄デスマッチ」を行うも敗北。この一戦を最後に、第一線から身を引くことを表明した。 2009年12月23日、齋藤彰俊を対戦相手に引退試合を行った。その前月、11月7日付けの東京スポーツ紙上で、上述の大谷戦を「“デスマッチ”引退試合」と位置付けたうえで、既にそれ以来試合間隔を空けていたことから「プロレスラーの体が作れるうちに自分へのケジメとして」あと1戦、“プロレスラーとしての”引退試合を行いたいと訴え、対戦相手にはプロレスリング・ノア所属となった齋藤を指名した。さらに「デスマッチは引退したから普通の試合でもいい」「よそのリングに齋藤を引っ張るのは筋が違う」と、ノアの大会での対戦を熱望。それまで接点すら無かったノアの会場に自ら出向き、副社長の丸藤正道らに直談判、試合を組んで貰えるよう懇願した。その結果「通常のシリーズでは組まない」「デスマッチは禁じる」との条件付きながらも認められ、希望どおりに「松永光弘引退記念試合」として、齋藤との一騎打ち(時間無制限1本勝負)が、2009年12月23日の丸藤正道プロデュース興行にて組まれた。後日、試合直前になってデスマッチ強行も匂わせたものの、実際の試合では、大掛かりな凶器は一切封印、反則攻撃さえも最小限に留めて闘った。結局、10分24秒、齋藤のスイクル・デスからピンフォール負けを喫した。しかしながら「(齋藤は)強かったですね、無謀だった。でもやらずに終わるよりいい。やってよかった。完全燃焼です」と語り、相手となった齋藤も「デスマッチだったら松永にかなわない。『20年前に2人で語り合った夢』のプロレスラーとして(松永は)引退してくれた」と“盟友”に賛辞を送った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松永光弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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