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松永怜一 : ミニ英和和英辞書
松永怜一[まつなが れいいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [いち]
  1. (num) one 

松永怜一 : ウィキペディア日本語版
松永怜一[まつなが れいいち]

松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - )は、福岡県北九州市出身のアマチュア野球指導者。
学生・社会人野球界で監督を歴任。野球が公開競技であったロサンゼルスオリンピックでは野球日本代表を監督として率いチームを金メダルに導いた。
== 経歴 ==
=== 高校時代 ===
八幡市立(現在の北九州市立)槻田小学校時代、家の近くの八幡製鉄(新日鉄住金八幡)のホームグラウンド大谷球場(現在の北九州市立大谷球場)で八幡製鉄と門司鉄道管理局の春・秋の定期戦「製門戦」に夢中になる。
八幡中・高時代は小倉中・高が夏の甲子園大会で全国優勝したので打倒小倉に燃えていた。小倉のエースは福嶋一雄(2013年野球殿堂入り)であった。松永は3番でサードを守っていた。1949年、夏の甲子園大会予選、福岡県大会の決勝で小倉高校と甲子園出場をかけて戦うが、5対2で敗れる。しかし、松永は甲子園大会出場の手応えを感じる。八幡高は秋の新人戦で敗れるものの、松延一男野球部長は頻繁に中・四国の強豪校との練習試合を組み、ことごとく撃破する。
松延部長の戦略が功を奏して、1950年第22回選抜高校野球大会出場校に選ばれ、甲子園初出場を果たす。準々決勝、激しい雨中の大激戦の果て韮山高にサヨナラ負けを喫するが、3番サードで主将の松永はチームメイトの渡辺雅人投手、森下正夫内野手(卒後南海ホークスに入団)とともに優秀選手に選ばれる。
夏の甲子園大会予選、福岡県大会の準決勝、小倉高と対戦、1対0で小倉がリード、9回八幡の最後の攻撃で先頭バッターの松永は初球をライト前にヒット、これを小倉のライトは後逸、ボールは転々とフェンスへ、松永は2塁をまわり3塁へ向かうが、3塁のコーチャーズ・ボックスには誰もいない。そのとき八幡の選手たちはまだベンチ前で円陣を組んでいた。松永は「えーい、ままよ」と果敢に3塁をまわって本塁をねらう。が、惜しくもホームベース寸前でタッチアウト。八幡の念願、夏の甲子園大会初出場は断たれた。こうして松永の高校最後の夏は終わった。
=== 大学時代 ===
1951年、法政大学に入学。1年生の春からレギュラーとして活躍するも腰を痛め、4年生の最後のリーグ戦は春・秋ともに欠場を余儀なくされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松永怜一」の詳細全文を読む




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