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松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。 == 生涯 == 1875年(明治8年)、長崎県壱岐の商家に生まれた。二代目安左エ門の長男で、幼名は亀之助〔『私の履歴書 経済人7』347頁〕。故郷の印通寺浦は天然の良港をなしていて、安左エ門が生まれたころまでは商業地で、壱岐の首都的存在だった〔『私の履歴書 経済人7』346頁〕。祖父は京阪神地方との交易、酒造業、呉服・雑貨・穀物の取り扱い、水産業など相当手広く事業を営んでいた〔『私の履歴書 経済人7』345頁〕。幼名の亀之助時代の思い出のなかで印象に残るのは祖父母、父母、親戚一統から非常にかわいがられて育ったということだった〔。 福澤諭吉の『学問のすすめ』に感奮興起し、福澤門に進むことを独りぎめしていた〔『私の履歴書 経済人7』349頁〕。郷の浦の親戚に預けられて、通っていた第十七高等小学校もあと一年で終えるというころ、この希望は非常に強くなった〔『私の履歴書 経済人7』350頁〕。 1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾大学に入学〔電力の鬼・松永安左エ門(上) 三田評論〕。遠縁に当たる霊岸島の山内善三郎家に寄寓した〔。16歳のときには真性コレラにかかり、本所緑町の避病院に入れられることになったが幸いに助かった〔『私の履歴書 経済人7』351頁〕。 1893年(明治26年)、父(二代目安左エ門)の死で帰郷、家督を相続し、三代目安左エ門を襲名〔。それまでは、大きな不幸も知らず、順調だっただけに、父の若死は腹立たしいほど残念だった〔。するめ、干しあわびなどの水産物資をつくって中国に輸出することなどを手がけた〔『私の履歴書 経済人7』352頁〕。自分も持ち船にのって壱岐から博多、長崎、平戸、対馬などにでかけていた〔。元来松永家は商売のほか土地もかなりあった〔。土地の管理、漁場経営などには相当手がかかった〔。そこで安左エ門は酒造業、海産物取り扱い、呉服業などはいっさいやめる決心をした〔『私の履歴書 経済人7』353頁〕。それらの業は他人に譲渡して、土地だけを確実に継承していくことにした〔。 21歳の秋再び慶應義塾に戻った〔。福澤諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳(けいがい)に接すると共に、福澤桃介の知遇を得た〔。卒業まであと一年という1898年(明治31年)、学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう〔」と勧められて退学した〔。福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と記した〔。 慶應義塾大学中退後、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。当時山本達雄総裁の下、日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され、慶應出身者が用務員から一般職員、幹部人事までを占めた時期にあたるが1年で辞職。その後は福澤と共同で神戸や大阪等で材木商や石炭業を営む。 1909年(明治42年)、福博電気軌道の設立に関わり、「電力王」「電力の鬼」と呼ばれる安左エ門が、電力事業に携わる第一歩となった〔。そして、いくつかの電力会社を合併し、九州電燈鉄道となり、さらに1922年(大正11年)関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になった〔。1928年(昭和3年)には社長に就任し、一都十一県に電力を供給するまでになった〔。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙に立候補し、当選した(次の選挙で中野正剛に敗れて落選した)。 東邦電力は九州、近畿、中部に及ぶ勢力を持った。さらに東京進出を図り設立された、同社の子会社・東京電力は、東京電燈と覇権を争った(当時は同じ地域に複数の電力会社が供給し、激しい競争をすることがあった。鶴見騒擾事件もこの電力戦が大きな要因)。1927年(昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任した〔したがって、この東京電力は、現在の東京電力とは直接にはつながっていない。〕。その影響力はもとより、この頃「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。 戦争に訴えなくとも、日本が生きていけるということに成算があり、国家による管理に反対した松永は、その道筋を説き続けた。官僚嫌いでもあった松永は、講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言した(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり、新聞に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれる。当時の企画院総裁だった鈴木貞一から「あなたは重大なリストに載っているから、手を引かないと危ない」という忠告も受けた。 戦争の激化に伴い、国家総動員法と合わせて電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立され、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これに伴う東邦電力の解散(1942年)を期に松永は引退し、以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごした。 第二次世界大戦後、老欅荘を建てて1946年(昭和21年)埼玉県柳瀬(現・所沢市)から小田原に移り、住まいとした。所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。 引き続いて当時のGHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、かつての敵・池田成彬の推薦により、吉田茂に電気事業再編成審議会会長に抜擢された〔。日本発送電側は独占体制を守ろうと画策したが、反対の声を押し切り、意を共にする木川田一隆や池田勇人らと9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現した〔。最終的にはGHQが反対派をねじ伏せた〔。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった。 1951年(昭和26年)、こうした経緯から電力技術の研究開発を効率的かつ国家介入など外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク・電力中央研究所を設立し、晩年は自ら理事長に就任した。産業計画会議を主宰し、東名高速道路・名神高速道路の計画や、国会でも物議を醸した日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画を発表した。 1959年(昭和34年)、財団法人松永記念館を設立、自宅敷地内に松永記念館本館を建て、収集した古美術品を一般に公開した〔現在は収蔵品の多くは九州の福岡市美術館に移ったものの、敷地および建物は小田原市の所有となり、小田原市郷土文化館分館 松永記念館として公開されている〕。 また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳・刊行に尽力した。 1971年6月16日、肺真菌症の為に東京都新宿区の信濃町の慶應義塾大学病院にて死去〔朝日新聞 1971年6月16日夕刊〕。。その死後、故人の遺志により葬儀等は一切行われず、松永家は財界人の弔問や香典・供花なども辞退している。墓所は埼玉県新座市の平林寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松永安左エ門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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