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松浦 築枝(まつうら つきえ、1907年(明治40年)11月5日〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.189。〕 - 1999年(平成11年)〔「菅家紅葉氏談話 」、立命館大学、2009年11月5日閲覧。〕)は、日本の女優である。初期芸名は松浦 月枝(読み同)、出生名は大野 月枝(おおの-)、結婚後の本名は松田 月枝(まつだ-)である〔〔。 == 来歴 == 1907年(明治40年)11月5日、大韓帝国釜山(現在の大韓民国釜山広域市)に「大野月枝」として生まれる〔〔。1910年(明治43年、同地は日本領となり朝鮮釜山府となった。 やがて松竹キネマの柳さく子に演技を学び〔、京都の松竹キネマ下加茂撮影所に入社した〔。 1925年(大正14年)5月、阪東妻三郎を筆頭に、等寺院の東亜キネマを抜け出た女優らがマキノ・プロダクション創設の報を聞き、マキノ映画上映舞台挨拶のため朝鮮に渡る。釜山についた阪東に、朝鮮でマキノ映画の配給をしていた櫻庭藤夫が「松浦を女優にしてくれ」と頼み、阪妻が了承〔『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社)〕。 同年6月、マキノ・プロダクション御室撮影所が発足、阪妻の世話でこれに移籍〔〔。同年、「松浦月枝」名義で二川文太郎監督の『乱刀 前篇』に出演した。 1926年(大正15年)、同社社長の牧野省三の指示で改名〔、高見貞衛監督の『浪人地獄』から「松浦築枝」と名乗った〔。 1930年(昭和5年)12月以降のマキノ・プロダクションの経営難に際して、名古屋あるいは東京・浅草で他の所属俳優たちとともに舞台で活動し、収益金を争議資金に充てた〔。 1931年(昭和6年)には同社は製作停止せざるを得なくなり、最終的に解散となる。同年、新興キネマに移籍〔。 1932年(昭和7年)1月、牧野省三の息子の一人である松田定次と結婚し〔、同年、代表作となる山中貞雄監督の『磯の源太 抱寝の長脇差』に出演する〔。同年2月設立された正映マキノキネマ、同年11月からは宝塚キネマ興行、1933年(昭和8年)には太秦発声映画、1934年(昭和9年)にはエトナ映画社へと移籍した〔。 1935年(昭和10年)11月、マキノ正博がマキノトーキー製作所を設立すると、夫の松田とともに参加した〔。 第二次世界大戦後は、マキノ光雄が経営陣にいる東横映画で活動。 1951年(昭和26年)、同社が他の2社と合併して東映が設立されると、東映京都撮影所の専属女優となった〔。 1965年(昭和40年)、引退〔。 1999年(平成11年)、死去〔。満91-92歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松浦築枝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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