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六代伊藤宗看(ろくだいいとうそうかん、1768年(明和5年) - 1843年10月9日(天保14年9月16日))は、日本の江戸時代の将棋指し。十世名人。将棋家元三家の一伊藤家当主。前名は松田印嘉。子に伊藤看理(六段)、伊藤看佐(七段)、伊藤金五郎(六段)。養子に七代伊藤宗寿。 == 経歴 == 1761年に三代伊藤宗看が没すると、四代伊藤得寿が後を継ぐが、1763年に24歳で早世してしまう。伊藤家は鳥飼忠七を当主に迎え、忠七は五代伊藤宗印を名乗った。1786年に山東京伝が開板した『指面草』に青木昆陽と並ぶ江戸の出世頭として「菓子屋の子胤将棋所になりたるものもあり」と紹介されているが、名人になることもなく七段のままで終わった。 1768年に松田家の子として江戸で生まれた印嘉は1784年、17歳のときに三段となり、伊藤家の養子となり伊藤印嘉として御城将棋に初出勤する。1785年には宗看の名で出勤した。 1789年、大橋本家の九代大橋宗桂が将棋所を再興し名人となった。この年に五代宗印は引退し宗看が伊藤家の当主となる。五代宗印は1793年に没した。同年までに宗看は七段の昇段を果たしている。 1794年に長男の看理が誕生した。同年、宗看宅において名人である九代宗桂の立会いの元、大橋分家の六代大橋宗英(八段)と平香交じりの手合いで対戦し香車落番で敗れている。1795年の御城将棋で六代宗英と再び対戦、左香落されで敗れる。1798年の御城将棋で六代宗英と平香交じりの手合いで対戦、平手番で敗れる。1799年に九代宗桂が没すると、六代大橋宗英が襲位した。 1804年には御城将棋で六代宗英と左香落されの手合いで対戦し勝利。1809年に六代宗英が没すると、名人は再び空位となる。 1810年に看理が御城将棋に初出勤し、1812年には宗看と角落で親子対決している(持将棋)。 少なくとも1815年までに宗看は八段に昇段した(『御城将棋留』)。この間の1811年と1816年に、大橋本家の十代宗桂と対戦しており(それぞれ半香交じり、左香落ちの手合い)、宗看が勝利している。十代宗桂は1818年に没した。 1820年の御城将棋では大橋分家の英俊(大橋柳雪)と右香落ちで対戦して勝つ。1823年の御城将棋でも同手合いで勝利。 1825年に宗看が名人位を襲う。この間の1824年に宗看の嫡男の看理が没している。1827年の2月には次男の看佐が没した。『将棋営中日記』によると、博打好きで多額の負債を抱えた末に縊死したという。三男の金五郎は素行が悪く勘当されていたという。大橋分家の英俊(二代宗英)も御城将棋から離れ、大橋本家・大橋分家共に人材が不足していたこともあり、1833年には、家元三家以外の者として河島宗臨が御城将棋に初出勤している。 1834年、天野宗歩と角落ちで対戦した(86手で指し掛け)。 廃嫡後に上方で名声を博した大橋柳雪は1837年に江戸に戻り、翌1838年の六代宗英の30回忌追福会で宗看は柳雪と香落ちで対戦した。 1842年に最後の御城将棋を勤める。この年に甥で初代伊藤看寿の孫にあたる宗寿を養子に迎えた。1843年3月に三男の金五郎に先立たれた。9月16日に76歳で没している。法名は飛行院宗看日将。 宗看の死去後、後継と目された十一代大橋宗桂はまだ七段であったこともあり、30余年名人位は空位となってしまった。養子に迎えた宗寿も1846年に没し、十一代宗桂の門下であった上野房次郎が伊藤家を継いでいる。この房次郎が江戸幕府滅亡後に家元最後の名人である八代伊藤宗印となる。 「荒指しの宗看」と謳われたほどの豪快な攻めを得意とする名人であり、十一代大橋宗桂の「気象張り丈夫」との評が残る。また、御城将棋35局のうち11局が持将棋であった。 柳雪・宗歩の先駆者にあたり、近代将棋に通ずる数多くの新手を開発したともみなされている。 著書に実戦集である『将棊妙手』と定跡書である『将棋図選』がある。『将棋営中日記』によると、図式の作成を試みていたらしいが、献上図式の伝統は復活しなかったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤宗看 (6代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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