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松田氏(まつだし)は、相模国足柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族。室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、室町時代に幕臣として京都に存在した家系、また、小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系がある。 鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。 == 備前松田氏 == === 経歴 === 出自については、藤原秀郷の末裔・波多野氏の一族であるとも相模国の御家人の出とも言われ、実際系図が何通りもあり定説化されていない。ここでは、相模国の御家人説に則り記載することにする。 御家人説では、松田元保の子松田元国が後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府討伐の功により備前国御野郡伊福郡を与えられ、彼の地に富山城を築き本拠地にした。一方、この時期に備前国守護として松田盛明がいた事が記録で確認されているが、元保らとの関係は不明である。時代が下り、松田元澄の代になり応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると東軍の赤松氏方につき、西軍の山名氏の追い落としに功績があり、赤松氏の被官になり、伊福郷の守護代に相当する地位になった。文明15年(1483年)頃には備前国西部に確固とした力を築いていたためか、守護の赤松氏から警戒され、赤松政則の追討の命を受けた浦上則宗の一族の浦上則国に攻め込まれることとなり、松田元成は山名氏に援軍を要請すると同時に、文明12年(1480年)に新しい本拠地とした金川城を出撃し、赤松方の小鴨大和守の居る備前福岡城を文明16年(1484年)正月に落とした。勢いに乗った元成は備前国を掌中に収めるため、文明16年(1484年)2月、浦上則国の居城三石城を落とすため東へ進撃するが、途中の吉井川東の天王原で浦上勢と遭遇し合戦に及ぶも大敗し、退却する途中、浦上勢に追いつかれ磐梨郡弥上村山で自害する。 その後も松田氏は西備前に君臨し浦上氏と対立した。時が下り、松田元陸の代には、足利義晴のもと大永2年(1522年)京の都で所司代に就任するなどしていたが、享禄4年(1531年)、天王寺合戦で味方の浦上村宗とともに討死。孫の松田元輝の代になると宇喜多直家の力が強大になり、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ、更には当時美作・備中への影響力が強かった尼子晴久が浦上氏を攻撃すべく備前へ侵攻してきた際には、尼子方に属するなどによって勢力の維持を図ろうとしたが、永禄11年(1568年)、宇喜多直家に主力の重臣である宇垣与右衛門を謀殺され、さらに直家の調略により虎倉城主の伊賀久隆に寝返られ、同年7月、宇喜多勢に金川城を攻撃され元輝は伊賀久隆の鉄砲隊により討死。元賢も金川城落城により落ち延びる途中、伊賀勢の伏兵により討死。元賢の弟の松田元脩は備中に逃れ(一説には因幡の山名豊国に仕えたという)、備前松田氏の宗家流は滅亡した。 ただ、庶流家である西谷城主の新庄松田氏は浦上氏に従う事で宗家滅亡後も存続し、主に美作南部の戦線で功を挙げた。天正2年(1574年)から表面化した浦上宗景と宇喜多直家の抗争の際には新庄松田氏は宗景方について戦い、翌天正3年(1575年)に浦上宗景が追放され宇喜多直家が実権を握ると新庄松田氏は浦上方だった事もあって所領を削られたものの存続は許された。以後、宇喜多政権でも新庄松田氏は在地の土豪として小さいながら勢力を保っていたが、宇喜多氏の改易後は帰農を余儀なくされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松田氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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