|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 松 : [まつ] 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 源 : [みなもと, げん] 【名詞】 1. source 2. origin
松田 源治(まつだ げんじ、1875年10月4日 - 1936年2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選9回)。拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。中央大学、日本大学卒業。 == 来歴 == 大分県出身。弁護士から大分県区の衆院選に立候補し、1908年(明治41年)に初当選。初め立憲政友会に入る。1915年(大正4年)3月の大分県区第12回衆議院議員総選挙では次点で落選したが11月に同じ立憲政友会で当選した成清博愛の辞退により政界に返り咲いた。1924年(大正13年)に政友本党結成に参画し離党。1927年(昭和2年)、政友本党が憲政会と合併して立憲民政党を結成するとそれに伴い自らも民政党に所属することになる。1929年(昭和4年)、濱口内閣で拓務大臣に就任し初入閣。1934年(昭和9年)、岡田内閣で文部大臣に就任し2回目の入閣を果たしたが、在任中に病死した。 文部大臣就任から間もない1934年8月29日に「近頃、家庭でパパだのママだのという言葉がはやっているようだが、もってのほかだ。日本語を使ってお父さん、お母さんと呼ばないから日本古来の孝道が廃れるのだ」といった内容を語ったことが報じられ、議論を呼んだ。また1935年には日本美術展覧会が運営を巡って紛糾する原因になる「松田改組」を強行した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松田源治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|