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松田 甲(まつだ こう、1864年8月8日(元治1年7月7日)〔権(2008年)、56頁〕 - 1945年(昭和20年)7月17日〔権(2008年)、82頁〕)は日本の測量技術者、漢詩人、著述家である。主として朝鮮総督府嘱託時代の著作で日本と朝鮮間にあった交流の事績を明らかにした。幼名甲子五郎 ==生涯== ===経歴=== 会津藩藩士松田俊蔵の五男として若松に生まれる〔*>松田の養女の言による。蝦夷地生まれとする説もあるが、松田自身は『日鮮史話第五編』で「会津に生まれ」と述べている。〕。大竹多気は実兄。松田家は戊辰戦争後に斗南に移り、松田は上京後に攻玉社土木科で学んだ。卒業後参謀本部測量科、測量局、陸地測量部に測量技術者として勤務し、日本、台湾、南清、蒙古、朝鮮などで測量に従事した。一方では文学的な活動を行い、野口寧斎、森槐南、永坂石埭、井上通泰などの権威者たちに漢詩、和歌、俳句、書を学び、作品を発表している〔権(2008年)、60-61頁〕。1911年(明治44年)4月に朝鮮総督府臨時土地調査局技手となり、朝鮮各地の測量や地図作成を行った。調査局は1918年(大正7年)に解散し、監査官に昇進していた松田は総督府逓信吏員養成所教官となって在鮮を続け、1923年(大正12年)には総督府官房嘱託となった。松田は朝鮮の文人たちと交流を持ち、日本と朝鮮の文人が作った「以文会」の幹事として、また松田自身が主宰した「忘機会」などで創作活動も行っている〔権(2008年)、65-67頁〕。会津会会員。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松田甲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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