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松谷竜二郎 : ミニ英和和英辞書
松谷竜二郎[まつたに りゅうじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [りゅう]
 【名詞】 1. (1) dragon 2. (2) promoted rook (shogi) 
: [に]
  1. (num) two 

松谷竜二郎 : ウィキペディア日本語版
松谷竜二郎[まつたに りゅうじろう]

松谷 竜二郎(まつたに りゅうじろう、1964年7月10日 - )は、日本実業家、元プロ野球選手投手)。スチールエンジの代表取締役社長。NPBでは読売ジャイアンツ近鉄バファローズに所属した。
== 来歴・人物 ==
大阪市立高から大阪ガスに入社。2年目の1985年スライダーを習得し、抑えを任される〔読売新聞、1988年12月2日付朝刊、P.19〕。1986年から3年連続で都市対抗に出場。1988年大会では1回戦で優勝候補のプリンスホテルと対戦、延長12回の接戦を制し勝利投手となる〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。同年は日本選手権にも出場するが、準々決勝で東芝に逆転負け、敗戦投手となった。1987年の第8回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。1988年のドラフト会議読売ジャイアンツから2位で指名され入団。契約金と年俸はそれぞれ5,500万円、600万円(いずれも推定)だった〔。
1年目の1989年は一軍のキャンプに参加し、オープン戦でも投球内容を評価されている〔読売新聞、1989年3月29日付朝刊、P.43〕。4月15日には一軍初登板を果たしたが、その後二軍に降格。しかし6月7日にはイースタン・リーグ大洋戦でノーヒットノーランを記録し、6月12日には一軍に再昇格している〔読売新聞、1989年6月13日付朝刊、P.19〕。1991年5月22日ヤクルト戦ではローテーションの谷間で初の先発を任され、1失点完投勝利をマークした。続く6月6日の試合では自ら適時二塁打を放ち2失点完投勝利。2連勝で飛躍が期待されたが、その後は打ち込まれ、先発に定着できなかった。
1992年5月31日にはイースタン・リーグの大洋戦でリーグ史上初となる二度目のノーヒットノーランを記録している〔ウエスタン・リーグでは元広島の城野勝博が1968年に達成しており、2012年シーズン終了現在、二軍での複数回達成者は松谷と城野のみである〕〔『ベースボールマガジン』2012年11月号、72ページ〕。1993年は春先に右肩を痛めて回復に夏までかかったが、同年10月10日中日とのジュニア日本選手権では8奪三振の完封勝利でMVPに選出された〔1993年10月11日付朝刊、P.24〕。
1995年3月に近鉄に移籍し、1997年に右肩を故障〔。同年をもって戦力外通告を受け、2週間の入院後に巨人の2軍監督だった末次利光の紹介で台湾プロ野球の入団テストを受けたが不合格となり、翌年2月に引退を決めた〔。
引退後は巨人入団時の監督である藤田元司とコーチの末次利光の斡旋で建設会社に入社したが経営が不振に陥り、同業他社に転職した。床版の専門工事部門がスチールエンジとして独立した際に転籍して3年間営業を務め、その後2003年には代表取締役に就任している


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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