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ソンツェン・ガンポ(チベット語:、581年〔山口『チベット』下、27頁〕? - 649年もしくは650年〔デエ『チベット史』、46頁〕)は、古代チベットの王(在位593年 - 638年、643年 - 649年もしくは650年)。チベット初の統一王国(吐蕃)を樹立し〔正木『裸形のチベット チベットの宗教・政治・外交の歴史』、43頁〕、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる〔石濱「チベット仏教世界の形成と展開」『中央ユーラシア史』、256頁〕。本名はチソンツェンであり、ソンツェン・ガンポは後世の人間による尊称である〔佐藤「ソンツェンガンポ」『世界伝記大事典 世界編』5巻、502-503頁〕。漢文史料では、松賛岡保、棄宗弄讃と表記される。 宰相の(ガル・トンツェンユルスン)の補佐を受けてチベット高原の大部分を支配下に置き、吐谷渾、パイラン(白蘭)、タングートなどの周辺の部族に勝利を収める。640年ごろまでに吐蕃は、北東はツァイダム地方、東は松州、西はラダック、南はヒマラヤ山脈に支配領域を広げた〔。 彼の事績は早い時代から伝説化され、転輪王にも擬せられた〔石濱「チベット仏教世界の形成と展開」『中央ユーラシア史』、250-251頁〕。 == 生涯 == ラサ南東のヤルルン地方の部族長ナムリ・ソンツェン(ティ・ルンツェン)の子として生まれる。 13歳のときに父ナムリ・ソンツェンによって名目上の王に立てられたが、4年後に政敵によって父は毒殺される〔山口『チベット』下、18頁〕。ナムリ・ソンツェンの死後、ヤルルンに従属していたシャンシュン族とスムパ族、ヤルルン王家の親族であるコンポ、ニャンポ、タクポが独立を図った〔江上『中央アジア史』、531頁〕。ソンツェン・ガンポは苛烈な報復を行って支持を失い、608年にカム地方の家臣団が「附国」を称して独自に隋に朝貢した〔。 翌609年に隋の煬帝の攻撃を受けた吐谷渾の王・伏允が黄河上流域に逃げ込むと、チベットの情勢に変化が起きる。宰相のニャンの説得により、長年吐谷渾の攻撃に晒されていた東方のスムパ族のパイラン氏が吐蕃に臣従し、吐蕃・パイラン・吐谷渾に囲まれた附国は再び吐蕃に従属した〔山口『チベット』下、19-20頁〕。 吐谷渾に対しては、620年以前に王女を嫁がせて接近し、彼らから政治・軍事制度を吸収した〔山口『チベット』下、20頁〕。南のネパールとは同盟を結び、平和が保たれる〔デエ『チベット史』、40頁〕。 ソンツェン・ガンポは東アジアの大国だった唐との外交関係の構築に努め、政略結婚を実現することによって内外での権威の強化を図った〔正木『裸形のチベット チベットの宗教・政治・外交の歴史』、44-45頁〕。634年にソンツェン・ガンポは初めて唐に入貢して公主の降妃を願い出、当初は唐の太宗も王女の入嫁に同意していた〔山口『チベット』下、23頁〕。しかし、吐谷渾に親唐の政策を採る政権が樹立されると唐はチベットへの入嫁を拒否し、吐谷渾に王女を送った〔。報復としてソンツェン・ガンポは吐谷渾を攻撃し、638年に唐が支配する青海の松州に侵入した。吐蕃から攻撃を受けた唐と吐谷渾の両方は賠償金を支払った〔。吐谷渾は親吐蕃と親唐の二派に分かれ、前者は吐蕃に臣従した〔正木『裸形のチベット チベットの宗教・政治・外交の歴史』、45頁〕。また、青海以外に雲南、ビルマ北部、ネパールへも軍を派遣した〔。 638年、ソンツェン・ガンポの息子が吐蕃の王に即位する。唐は吐蕃の要求を受け入れ、640年(もしくは641年)にグンソン・グンツェンの妃として太宗の娘文成公主が迎え入れられた。文成公主がチベット人の赭面〔赭面とは、赤土を顔に塗るチベット人の習慣である。(石濱裕美子『チベットを知るための50章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2004年5月)、27頁)〕の習慣を嫌がった時には、国中にこれを中止する命令を発した〔江上『中央アジア史』、130頁〕。 しかし、643年にグンソン・グンツェンが落馬死したため、ソンツェン・ガンポが王に復位した。646年にグンソン・グンツェンの喪が明けた後、ソンツェン・ガンポは文成公主と再婚した〔山口『チベット』下、24頁〕。再婚後、宰相のガル・トンツェンを唐に派遣し、唐から皇室の婿として認められて冊封を受けた〔山口『チベット』下、24-25頁〕。 ソンツェン・ガンポの死後、グンソン・グンツェンと文成公主の子であるが王となったが、宰相のガル・トンツェンが実権を握っていた〔山口『チベット』下、28頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソンツェン・ガンポ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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