|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 板 : [ばん, いた] 【名詞】 1. board 2. plank ・ 垣 : [かき] 【名詞】fence ・ 信 : [まこと, しん] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion
板垣 信安(いたがき のぶやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣、板垣氏嫡流。嫡子に修理亮がいる。 == 経歴 == 甲斐源氏支流の於曾氏出身。弘治3年(1557年)、板垣信方の嫡子信憲が不行跡を理由に武田信玄により改易されたため、板垣家が一旦断絶〔信憲は後の弘治3年(1557年)(一説には『甲陽軍鑑』に記載された天文22年(1553年)、本郷八郎左衛門によって誅殺された。〕した。 しかし、翌永禄元年(1558年)に信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した〔『甲斐国志』松平定能編、江戸時代に編纂された甲斐国の総合地誌。『甲斐志料集成』『甲斐叢書』『大日本地誌大系』などに収録されている。〕。永禄10年(1567年)の起請文では既に板垣姓を称しており、武田氏の親族衆として120騎を有した。『甲斐国志』によれば、於曾の菅田天神社や於曾屋敷へ所領を寄進した記録が残る。 永禄12年(1569年)の駿河侵攻では久能城主を務めている(後任は今福友清)。 内藤昌秀の戦死後、天正7年(1579年)2月に内藤昌月が上野国箕輪城代就任するまでの間、同城に在城した。元亀3年(1572年)には駿河国田中城主を務め、「田中の板垣殿」と呼ばれた。山梨県の富士御室堂浅間神社や長野県の生島足島神社に判物や起請文が伝わる。 その後信安は、天正3年(1575年)頃の戦で討死したという説〔『板垣信方(形)の家族とその子孫』三田村孝、2009年 -(但し、武田氏側の正式史料にはこの記載はない為、どの戦であったかを含め詳細は不明)〕もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板垣信安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|