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板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 1999年10月7日)は、徳島県出身のプロ野球選手。 == 経歴 == 元中日ドラゴンズの投手でタレントの板東英二は中学の一つ先輩にあたる〔『週刊プロ野球データファイル』2012年69号、ベースボール・マガジン社、P2〕。鳴門高では1959年、3年生の時に夏の甲子園県予選で優勝するも、南四国大会決勝で高知商の山崎武昭と投げ合い1-4で敗退、甲子園出場を逃した。 1960年、近鉄バファローに入団、2年目より一軍に定着し先発・リリーフとして活躍した。生え抜き投手として1960から1970年代の近鉄を支えるが、勝ち星には恵まれず入団してから7年で7勝しか挙げられなかったが、1967年に8勝、1968年には200イニングを登板、自己最多となる12勝を挙げる。その後、再び低迷するも1974年に10勝を挙げ復活し〔近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P45〕、以降リリーフ、さらに谷間の先発としてチームに貢献した〔。1979年に投手コーチ兼任となり〔ベースボールマガジン 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版⑦ 1979近鉄バファローズ P88〕同年引退。 1980年、近鉄のスカウトに就任。その後は、近鉄の投手コーチ、二軍監督を歴任し1995年、再びスカウトに復帰。1998年、病気のため退団。 鈴木啓示が「プロ入り初のキャンプは同じ部屋の佐々木宏一郎さんの寝言、板東里視さんの歯ぎしり、牧野伸さんのいびきが酷くて夜もしんどかった。」 と語っている〔スポーツニッポン『我が道』2011年10月10日〕。 1999年10月7日、胆管癌のため大阪市内の病院で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板東里視」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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