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板楠 忠士(いたくす ただし、1971年12月10日 -)は熊本県出身の日本の柔道家、サンビスト。現役時代は60kg級の選手。身長167cm〔「ZOOM IN 素顔 板楠忠士」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号〕。組み手は右組み。得意技は背負投 巴投 払腰 腕挫十字固。別名はヴィクトル板楠。2015年現在は熊本中央高校の教員〔テクニカルディレクター 板楠忠士先生 〕。また、九州サンボ連盟の副会長兼技術委員長も務めている〔九州サンボ連盟副会長兼技術委員長挨拶 〕。 == 来歴 == 柔道は小学校2年の時に兄に無理やり誘われて、近くの松龍館で始めた〔。何度もやめようと思いながらも兄が怖くて続けていたが、そのうち力を付け始めて、楠中学3年の時には全国中学校柔道大会55kg級で優勝するまでになった。その後、1983年の世界選手権60kg級で3位になった原口謙一に誘われて、原口が柔道部監督を務める東海大第二高校へ進んだ。中学までは切る柔道をやっていたが、原口に「真っすぐ立って、上から持つ柔道をやれ」と指導されて柔道スタイルを変更した。2年の時にインターハイ軽量級で5位、3年の時に新人体重別60kg級で3位となった。1990年に東海大学へ進学すると、1年の時には早くも選抜体重別で決勝まで進出すると、大学の5年先輩となる世界2位の越野忠則と対戦するが腕挫十字固で敗れた。嘉納杯では決勝で世界3位であるモンゴルのダシュゴンビン・バトトルガを注意で破って1年生ながら優勝を果たした。2年の選抜体重別でも越野に有効で敗れて2位だった。アジア選手権では3位にとどまった。3年の時には正力杯で優勝すると、嘉納杯でも決勝で日体大3年の木村勝範を判定で破って2連覇を達成したことで、アトランタオリンピック代表候補として注目を集めることになった〔。なお、この当時自らの柔道を次のように語っていた。「センスはない方なのでハートと力の柔道かな?一本取れなくてもいい、僅差でもいいから勝つ柔道です。せこい柔道ですね」〔。続くドイツ国際では2位に終わった。4年の時には東アジア大会で3位にとどまると、選抜体重別の初戦では世界ジュニアチャンピオンである明治大学2年の園田隆二に判定で敗れて、世界選手権代表の座を逃した。正力杯でも3位に終わり2連覇はならなかった。正力国際では決勝で木村に効果で敗れた。1994年には綜合警備保障の所属となると、講道館杯では優勝を飾った。1995年のドイツ国際では天理大学2年の野村忠宏に指導で敗れて2位だった。選抜体重別では準決勝で園田に判定で敗れて3位にとどまった。その後は大きな実績を上げることなく引退した。 一方で、柔道以外にもサンボに取り組むと、1994年の全日本サンボ選手権大会68kg級では5試合のうち4試合を得意の腕挫十字固に極めるなどして圧勝した。なお、サンボの大会に出場したのはこの時限りではあったが、サンボの神様とも言われるビクトル古賀に長年師事して、サンボの普及発展に努めている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板楠忠士」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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