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林子平 : ミニ英和和英辞書
林子平[はやし しへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はやし]
 【名詞】 1. woods 2. forest 3. copse 4. thicket 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

林子平 : ウィキペディア日本語版
林子平[はやし しへい]

林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日1738年8月6日) - 寛政5年6月21日1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。
高山彦九郎蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。
== 人物・生涯 ==
元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父の岡村良通は徳川氏の御書物奉行(620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た。そのため、子平の兄弟は、開業医の叔父の林従吾のもとで養われる。
まもなく、姉のなお(きよ)は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩5代藩主伊達吉村の侍女として仕えた。なお(きよ)はその容姿と心ばえが吉村に愛され、やがて、仙台藩6代藩主となる伊達宗村の側室に抜擢され、お清の方と呼ばれるようになった。お清の方は一男一女を授かり、男子はのちの三河刈谷藩土井利信の養嗣子となる土井利置、女子は出雲松江藩松平治郷の正妻となる方子(青楽院)である。
お清の方の縁で、養父の林従吾が仙台藩の禄を受けるようになった。従吾没後、兄の林友諒が封を継ぎ、宝暦6年(1756年)正式に仙台藩士として150石が下された。しかし、この年の5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢宇田川玄随桂川甫周工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。
最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上に蟄居に処される。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。
寛政5年6月21日1793年7月28日))死去。享年56。
林子平の墓は仙台市青葉区にある龍雲院にあるが、その龍雲院の所在地は1967年昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み子平町と改称されている。
高山彦九郎蒲生君平ともに「寛政の三奇人」と称された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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