|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 林 : [はやし] 【名詞】 1. woods 2. forest 3. copse 4. thicket ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money
林 弘高(はやし ひろたか、1907年2月1日 - 1971年6月27日〔『朝日新聞』1971年6月30日朝刊、第3面訃報記事〕)は、吉本興業社長、吉本株式会社(東京吉本、大阪の吉本興業とは別資本)社長、太泉映画(東映の前身)社長。興行師、芸能プロモーター。本名:林 勝。 ==来歴・人物== 兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。米穀商を営んでいた林豊次郎の四男として出生。姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(通称:泰三)の妻の吉本せい。兄は旧吉本興業株式会社の社長を務めた林正之助。長男は吉本株式会社社長や吉本興業常務を務めた林英之。 中央大学法学部を卒業し、社会党の新聞の編集に関わった後〔竹中功 『わらわしたい-竹中版・正調よしもと林正之助伝』 河出書房新社、1992年、76頁。〕、1928年に吉本の東京の営業責任者となる〔竹本浩三 『笑売人 林正之助伝―吉本興業を創った男』 大阪新聞社、1997年、200頁。〕。東京の大学出身で東京の事情に詳しかったためである。 1932年3月に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社(東京吉本)を開き、支社長に就任。1939年、それまで通名だった弘高を正式に本名にする。 終戦後の1946年、東京支社を大阪の吉本興業から分離独立させ、吉本株式会社を設立して社長に就任。「浅草花月」、「江東花月」や「横浜花月」など東京の浅草や江東地区、横浜の伊勢佐木町で多くの劇場や映画館を経営。また同年11月には、太泉映画を設立して社長に就任し、映画製作も開始。その後、太泉映画を他社と合併させ、現在の東映に発展させた。1963年には大阪の吉本興業に招かれ、社長に就任。晩年脳梗塞で半身不随になるも精力的に活動を続けたが、こう頭がんのため1971年に64歳で急死。 若い頃は社会党の新聞の編集に関わるなど、文学青年気質であり、経営者としてはいささかロマンティストすぎるとも評されたという。政治家との交遊も左右にわたり幅広く、戦後まもなく占領軍の圧力で国会議員を辞し、不遇をかこっていた日本共産党の細川嘉六のシンパでもあった〔矢野誠一 『女興行師吉本せい-浪花演藝史譚』 中央公論社、1987年、86頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林弘高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|