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林 朝棟(りん ちょうとう、''Lin Chaodong''、1851年11月16日 - 1904年6月13日)、字は蔭堂、号は又密は、清末の台湾の軍人、霧峰林家の第6代当主。清仏戦争を戦い、劉銘伝の新政を支持し、施九緞の乱を鎮圧したが、日清戦争後、台湾が日本に占領されると、廈門に移り、最後は上海で病死した。 == 生涯 == 清朝統治時代の台湾の彰化県阿罩霧荘(現在の台中市霧峰区)で林文察の長男として生まれた。父の林文察は台湾に襲来した小刀会との戦いをきっかけに軍人の道を歩み、福建省に赴いて太平天国軍と戦い、1863年には台湾に戻って戴潮春の乱を鎮圧し、1864年に福建に戻って漳州で戦死した。林朝棟が14歳の時であった。父と過ごした時間は限られていたが、林朝棟も父と同じく、幼少から兵書を読み、武芸を好んだ。 1870年、叔父で家長の林文明が官府に罪を着せられて惨殺された。ここから林家は林朝棟の祖母の林戴氏と大叔父の林奠国のもと15年にわたって訴訟を展開し、4度にわたって北京に赴いた。林朝棟も福州と北京に赴いて冤罪を訴え、また同時に金銭で兵部郎中の職を買った。1882年、林戴氏が重病に陥ると、訴訟は大金を費やして勝訴も難しいため、林朝棟は裁判を終結し、台湾に帰って家業に専念した。 この年、福建巡撫岑毓英が台湾を視察に訪れ、東大墩に新しい府城(現在の台中市)を建設し、さらに大甲渓に堤防を建設することを決定し、各地の郷紳に寄付を求めた。林朝棟は数百名の人員と材料経費を負担し、岑毓英の好感を得、岑毓英は後に台湾巡撫に就任する劉銘伝に林朝棟を推薦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林朝棟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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