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林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 - 1997年1月4日)は、長崎県諌早市出身の画家。 山、川、野原、木立と言った、やさしい日本の風景を、心に映るままに描き続けた。 自由美術家連盟離脱後、特定の美術団体に属することもなく、かつ非常に寡作でありまた謙虚な性格であった為、一部の熱烈な理解者を得てはいた ものの、生前に美術界で大きな評価を得ることはなかった。 == 経歴 == ''底本はによった。但し、年齢は満年齢とした。'' 1918年 (大正7年)10月1日、長崎県北高来郡諫早村上ノ馬場(現諫早市上野町)に生まれる。父嘉八・母津枝。 家業は地主。 1937年(昭和12年)3月(18才)、県立諫早中学(現・県立諫早高等学校)を1年遅れで卒業。 小学生時代に結核を発症し中学は休みがちになるが、この間に歴史学・理科学・哲学等多数の本を独学で学び、また中学1年から油絵を図画教師石橋猛より手ほどを受けたり、レコードによりクラッシク音楽に親しんだりした。 1938年(昭和13年)10月(20才)、徴兵検査丁種に付き兵役免除。 1939年(昭和14年)3月、1937年頃より実践していた西式健康法で幾分か健康が恢復し画心抑え難い事を知った母ツエは、他の悩みを抱えていたこともあり、親類の野口彌太郎に“重正の画才の有無について”密かに相談の結果、一家を上げて東京市世田谷区世田谷に転居することを決断。 1939年(昭和14年)7月、新宿月光荘における独立美術協会夏講習会に参加し、海老原喜之助と親しくなる。 1939年(昭和14年)9月、杉並区高円寺にあった美術工藝學院純粋美術科に入学。 同校において、実技を鳥海青児・福澤一郎・川口軌外・村井正誠・日高昌克 に、西洋美術史を外山卯三郎に、日本美術史を田中一松に学ぶ。 特に日高昌克を生涯の師として仰いだ。 1942年(昭和17年) 3月(23才)、美術工藝学院閉鎖により卒業。 1942年(昭和17年)、結核治療のため続けていた西式医学研究所の西勝造の紹介により、憲兵と特高警察監視下の石原莞爾の知遇を得、反戦運動に協力する。。 1942年(昭和17年)10月(24才)、銀座紀伊国屋画廊で第1回個展開催。 1943年(昭和18年)(25才)、敗戦まで、金石舎水晶研究所にて水晶遅延線の改良研究に従事。 1946年(昭和21年)(28才)、読売新聞社主催新興日本美術第1回展に出品 佳作賞受賞。 1947年(昭和22年)(28才)、戦時中一度途絶えていた、自由美術家協会復活を目指す難波田龍起等の呼びかけに応じ同会員になると同時に、森芳雄自宅を事務所にして、運営実務の協力開始する。 1948年(昭和23年)10月(30才)、第12回自由美術展に出品。 1949年(昭和24年)10月(31才)、第13回自由美術展に出品。 1949年(昭和24年)、日本美術家連盟洋画部会員になる。 1950年(昭和25年)10月(32才)、第14回自由美術展に出品。 1951年(昭和26年)12月(33才)、野口彌太郎との3人展のため滞在中の長崎から、メニューヒン演奏会を聞くため訪れた佐世保で、遠縁の富田治子に出会い直ぐ結婚。治子は婚約時すでに重い結核に冒されており、介護のため佐世保に3年間近く滞在することになる。 若い精神の高揚と、より良い治療法を東京で妻に受けさせる費用を捻出したかった為か、この年の作品展5回・新聞取材3回・翌年も作品発表2回は、後年の「年1回程度の個展発表」やマスコミへの露出を避けた静かな発表態度とは全く異なるものに見える。 1952年(昭和27年)(33才〜34才)、妻治子の病状がますます悪化する。 1953年(昭和28年)10月(35才)、友人からの度重なる督促にも拘らず、10月9日開催予定の第17回自由美術展にも不出品が確定したため、3年連続不出品者扱い規定により、最初の除名者となる。この為、1968年に文芸春秋画廊で個展を開くまでの間、定期的な作品発表の場を持てない苦境に陥る。この時期以降の作品発表詳細は、“個展等作品発表歴”の項に記載。 1954年(昭和29年)3月(35才)、ますます重篤に陥る妻治子を、前年に困難を押して東京に連れ帰る。但し、感染を恐れ母津江以外の人には接触させず、重正自身が西式で治療しようと懸命の介護をするも、死去(24才)。 1954年(昭和29年)6月(35才)〜(43才)、傷心の重正を慰めるためと、生活安定を心配した親類の紹介により、三菱造船㈱社内誌「菱苑」の挿絵カット表紙等を描くことを約10年間続けることになる〜。ほぼ同時期に、日立製作所日立工場日立美術部の指導にあたる。 1958年(昭和33年)(40才)、日立製作所意匠研究所非常勤嘱託として主として家電デザインを約3年間行う。この年、イエナ画廊で前川直・石森美津子・川村久子と4人展を行う。 1959年(昭和34年)4月(41才)、個展等を通じてかなり以前より友人であった画家・川村久子と再婚。この年、長崎市で前川直・林田久子と3人展を行う。 1962年(昭和37年)(44才)、日立家電販売㈱“日の出会”美術部の指導にたずさわり、会員とは長い付き合いになる。 1966年(昭和41年)(48才)、外山卯三郎より後任依頼を受け、約4年間にわたり東上野坂東報恩時において妻久子と共に、児童達に最初から油絵を教えることを多いに楽しむ。2人とも大変な子供好きであった。 1967年(昭和42年)(49才)、美術評論家“菅貢 “の推薦により、文芸春秋画廊を使用出来る事になり、1953年に自由美術家連盟除名以来ようやく安定した定期発表の場を得たことになる。 文春画廊に於ける作品発表を列記すると計15回に及ぶ〔 # 1968年10月 個展 # 1970年10月 個展 # 1971年(昭和46年)久子と2人展 - 文芸春秋画廊改装工事中代替施設の銀座アートギャラリー # 1974年(昭和49年)3月 久子と2人展 - 久子の病、発症により、1972年10月の個展開催を中止した事により、何年分もの長い希望者列の出来ている文芸春秋画廊では、最良の美術展シーズンである10月枠を再び得るのは不可能となった # 1975年3月 久子と2人展 # 1976年3月 久子と2人展 # 1977年3月 久子と2人展 # 1978年3月 個展 - 久子の病状悪化により2人展を個展に切替え # 1979年3月 個展 # 1980年3月 個展 # 1981年3月 個展 # 1982年3月 個展 # 1983年3月 個展 # 1985年3月 久子と2人展 # 1986年 久子と2人展〕。 1972年(昭和47年)1月(53才)、永い確執のあった父嘉八死去(87才)。 1972年(昭和47年)4月、妻久子が重いスランプに陥るようになり、以後病状は山谷をくりかえす。良い時は、2人展も行う。 1982年(昭和53年)(59才)、久子の病状多少持ち直し、転居先を一緒にさがせるようになり、85年には2人展を行える程度には回復。 1984年3月(昭和59年)(65才)、杉並区西荻北における約1年の仮寓を経て、千葉市稲毛区宮野木町に完成したアトリエ付き住宅に転居。重正は、その形から蓑笠舎(さりゅうしゃ)と名付けた。 1987年(昭和62年)10月(69才)、愛蔵林田重正展(高山市内の愛好家が自己所有の絵を持ち寄って展示したもの)。 1989年(平成元年)7月(71才頃)、再生不良性貧血により、日本医科大学病院に1年以上入退院後退院するも、徐々に体力が衰えていく。 同時に画筆の衰えも目立つようになるが、入院中にあっても常に看護士さんや自分の手足を対象にしてまでデッサンすることを止めなかった。 1994年(平成6年)4月(75才)、病弱な重正を最後まで慈しんだ母津枝死去(96才)。 1997年(平成9年)1月4日、再生不良性貧血の症状悪化により約1年の入院期間を経て、世田谷区瀬田の日産玉川病院において、中学以来の友人の長男 中嶋昭院長・妻 久子・姪 貝田嘉子に看取られて死去。78才。 == 画風 == 描く対象として「①山・野原・雑木といった風景。 ②柿や葡萄のような果物、唐辛子・茄子・ジャガイモような野菜、干魚・干湯葉といった乾物等の室内静物。」 を主に扱っているが、木原秋好は「屋外写生より、アトリエ内での製作を好む妻久子を気遣った結果②が増えたが、本来は①を心行くまで写生したかったようだ。」と、述べている。山は本当に好きで、特に急峻な山よりも穏やかな山を描くことを楽しんだ。女性を描いた素描はあるが、油彩は全く残っていない 。 画風については、谷川徹三 による「林田重正の芸術」がもっとも端的に述べているので、それをそのまま借用すると、『油彩をもって、東洋の水墨の至り着いたような詩的情趣や音律の余韻を、その画中に現ずる独自な絵画世界を築こうとしているように私には思える。』『作品は、 第1類「風景を描きながら、その写実を深めたもの」、第2類「実景からモチーフを得たとしても、それをどこまでも心象風景として、詩句を積み重ねたり、楽音を構成するような手法をとっているもの」に至るまで、模索的な多様な表現がある。第3類「対象は全く写実的に描きながら、そこに夢幻的な、或いは超現実的な境を現じようとしたもの」、第4類「クレー的な発想の上に一味ちがった画面を構成しているもの」がある。 このように系列化したと時、私がもっとも林田の独自性をしめすものとして重んじるのは、第1類と第2類である。この2系列は弁別のしがたいものがあって、東洋風に言えばいずれも胸中の山水としても良いであろう。』と述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林田重正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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