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林 義郎(はやし よしろう、1927年(昭和2年)6月16日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の元衆議院議員。第1次中曽根内閣の厚生大臣、宮沢改造内閣の大蔵大臣を歴任した。また、日中友好会館会長を務めた。 == 来歴・人物 == 山口県下関市貴船町出身。豊浦中学4年修了、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25年)に東京大学法学部を卒業する。同年、通商産業省に入省する。入省同期に栗原昭平、諸口昭一(札幌通産局長、東商大卒)などがいる。通産省では、通産大臣秘書官、通産省重工業局産業機械課長を歴任する。 1969年(昭和44年)に通産省を退官。同年末の第32回衆議院議員総選挙に自民党公認で周東英雄の後継者として旧山口1区から立候補し、初当選した(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。以後連続11回当選。自民党では佐藤派→田中派に所属。経済企画政務次官、大蔵政務次官、自民党経理局長などを経て1982年(昭和57年)第1次中曽根内閣の厚生大臣として入閣する。林は、国際金融政策を中心に自民党内有数の政策通として知られていた。一方で、通産官僚出身ということもあって、田中派内の竹下登、金丸信ら党人派の実力者とは一線を画した。宮澤喜一が派閥横断的に組織した政策集団「平河会」では事務局長を務め、宮澤の良き理解者となる。田中派分裂に際しては、竹下、金丸らとは行動を共にせず、二階堂グループに参加している。 1989年(平成元年)に、第15回参議院議員通常選挙に敗北して、内閣総辞職を表明した宇野宗佑首相の後任を選ぶ総裁選挙に、「平河会」のつながりから宮澤派の支持を得て立候補、120票を獲得した。その後、二階堂グループの消滅により宮澤派に参加。海部俊樹内閣では衆議院税制改革特別委員長、宮沢内閣で衆議院国際平和協力特別委員長にそれぞれ起用された。 1992年(平成4年)、宮沢改造内閣で大蔵大臣に就任する。その後は、自民党税制調査会の幹部として、小委員長、税制調査会長を歴任して、いわゆるインナーの一人として自民党税調に影響力を維持した。また、小選挙区比例代表並立制が導入されて以後は、安倍晋三と調整の上、比例中国ブロックから選出された。 2000年(平成12年)に、勲一等旭日大綬章を受章する。2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林義郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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