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林 葆懌(りん ほえき/りん ほうえき、)は、中華民国の海軍軍人・政治家。護国戦争で反袁世凱の挙兵を行い、護法運動にも参加して護法軍政府7総裁の1人となった。字は悦卿。 == 事績 == 福建船政学堂を卒業し、後に海軍軍人としての教習のためイギリスへ赴いている。帰国後、北洋艦隊で管帯(船長)に就任し、1910年(宣統2年)、駐英造艦監督として艦船「肇和」の建造事務を担当した。中華民国成立後の1912年(民国元年)9月、北京政府海軍部参事に任ぜられる。同年12月、海軍少将銜を授与された。翌1913年(民国2年)7月、練習艦隊司令となり、その翌月には第1艦隊司令署理に任ぜられた〔徐主編(2007)、825-826頁。〕。 1915年(民国4年)12月に袁世凱が皇帝に即位、護国戦争が勃発すると、林葆懌は翌1916年(民国5年)に反袁蜂起を宣言、護法の電報を発した。同じく挙兵した李鼎新と共に第1艦隊を率いて広州入りしている。袁死後に勃発した護法運動にも林は護法軍政府側として参加し、1917年(民国6年)9月に護法軍政府海軍総司令となった。なお林は、護法軍政府内では岑春煊・陸栄廷らの旧広西派(旧桂系)を支持し、孫文(孫中山)と対立している〔徐主編(2007)、826頁。〕。 1918年(民国7年)5月、護法軍政府が孫文の単独指導から7総裁(主席総裁:岑春煊)による集団指導制へ改められる。この際に林葆懌は総裁の1人となり、更に海軍部部長兼海軍司令となった。同年11月には福建省督軍も兼ね、翌1919年(民国8年)1月には海軍上将銜を授与されている。しかし1920年(民国9年)10月、陳炯明率いる広東軍(粤軍)に旧広西派が敗北したため(粤桂戦争)、林も罷免された。1922年(民国11年)7月、北京政府から葆威将軍の位を授与されている。1930年(民国19年)、上海にて病没。享年68〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林葆懌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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