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林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.467.〕〔''林誠之助''、日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。〕〔''林誠之助''、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月10日閲覧。〕〔''林誠之助''、日活データベース、2012年12月10日閲覧。〕。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)〔。引退後、実業家となった〔。 == 人物・来歴 == 1907年(明治40年)3月、佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町)に生まれる〔。 旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる〔。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画〔、2012年12月10日閲覧。〕に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする〔。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する〔〔。1927年(昭和2年)6月、同社を退社、同年9月には、京都のマキノ・プロダクションに入社する〔。 1928年(昭和3年)4月、マキノを退社して日本映画プロダクション連盟に参加、同年5月10日、片岡千恵蔵が創立した片岡千恵蔵プロダクションの設立に参加、同社第1回作品『天下太平記』以降、1937年(昭和12年)に同プロダクションが解散するまで、ほとんどの作品に出演し、脇を固めた〔〔。同年、片岡千恵蔵とともに、日活京都撮影所に入社する〔〔。1939年(昭和14年)11月1日に公開された菅沼完二監督の『股旅日本晴れ』以降の出演歴が見当たらない〔〔〔。 第二次世界大戦中に俳優業を廃業した〔。実業界に転身し、地元・御船山近辺で成功を収めたという〔。没年不詳。 日本映画データベースにおいて、同時期に活動した俳優の林誠太郎との混同がみられる〔〔〔、2012年12月10日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林誠之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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