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林 郁夫(はやし いくお、1947年1月23日 - )は元オウム真理教幹部。元医師。教団が省庁制を採用した後は治療省大臣だった。地下鉄サリン事件の実行犯。ホーリーネームはクリシュナナンダ。 同教団幹部であった同姓の林泰男(後に小池に改姓)と縁戚関係はない。 == 来歴 == ; 生い立ち : 1947年、品川生まれ。父親が医師、母親が薬剤師の開業医の家に生まれた。小さい頃から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。専門は心臓血管外科。 :慶應義塾大学医学部に在籍していた〔 - MSN産経ニュース 2015年2月5日発信(2015年2月17日閲覧)〕。 ; 医師時代 :アメリカ合衆国に渡り、病院で勤務していた。のちに退職して日本に戻り、栃木県済生会宇都宮病院、国立療養所晴嵐荘病院(現・茨城東病院)、慶應義塾大学病院などに勤め、同病院での勤務時代には心臓外科の名医として石原裕次郎の手術チームの一員でもあった〔オウム「治療省大臣」の慟哭 - 講談社BOOK倶楽部〕。臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる〔林郁夫 『オウムと私』〕。 : 1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、約12年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた〔。 : 1978年、アメリカデトロイトにあるサイナイ病院外科研究所に留学、1981年に帰国後、栃木県済生会宇都宮病院、茨城県東海村の国立療養所晴嵐荘病院に再び勤めるが、手術は出来ても人の心は救えないと悩んでいた。同時に予防医学の重要さを認識するようになり、心臓病などはストレスと深くかかわっていると認識し、患者にヨーガ、瞑想法、呼吸法などを紹介したりしていた〔。ちなみに、医師免許は1995年12月12日に取消処分を受けている。 ; オウム真理教への入信 : 1987年、書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、しだいに傾倒していく〔。自ら運転する自動車で交通事故の加害者になり、その自責の念に駆られたことも入信の原因とされる。 : 1989年2月、オウム真理教に入信。1990年1月に晴嵐荘病院を退職し、同年5月、妻、子供達と共に一家4人で出家信者になった。出家の際、目黒に所有していたマンションを売った額を含めた全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。「師長」になり、東京都中野区にあった教団付属医院(AHI)の院長に就任。1994年には治療省大臣となる。教団の犯罪に従事する信者の指紋消去手術〔ただし真皮が再生された後同じ指紋が指に現れ、外科手術で指紋を消し去ることは出来ない。〕を行った行為などがワイドショーで報じられた。その他、監禁した信者で元ピアニストの妊婦に対し、チオペンタールナトリウムを打つなどしている。 ; 地下鉄サリン事件の実行 : 1995年3月20日、地下鉄サリン事件の実行犯として千代田線にサリンを撒布し2人を殺害、231人に重軽傷を負わせた。 : 事件直後、林は麻原彰晃が「地下鉄の騒ぎでオウムが疑われてるのは心外だ」と発言したことで麻原に対して不信感を抱いたと言う。逮捕後も麻原の「シヴァ神にポアされて良かったね。マントラを1万回唱えなさい」などの発言で彼に不信感を持ったと言われている。地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で「正悟師」に昇格した。 ; 逃亡・逮捕 : サリン事件前日の3月19日、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でレンタカーを借りる際に書類に指紋を残した信者の指紋の除去手術を、教団付属医院で行った。3月22日、警察は教団への強制捜査に踏み切り、この信者を全国指名手配した。3月24日から、手配信者や治療省の部下らと共に北陸方面に逃走を開始。石川県穴水町の貸し別荘を偽名で契約し、手配信者に顔の整形手術や再度の指紋除去手術等を行った。4月7日、教団との連絡役で逃走を支援していた治療省の部下が、林の潜伏先の近くで石川県警察の職務質問を受け、逮捕された。このことをテレビニュースで知ると、貸し別荘から逃亡した。4月8日、手配信者と2人で金沢市方面に向かう途中で林も警察官に発見され、職務質問で自転車の盗難が発覚し、占有離脱物横領罪で逮捕された。手配信者は山中に身を隠し、京阪方面を転々としながら逃走を続けていたが、5月18日、東京都足立区内の路上で警視庁に逮捕監禁罪で逮捕された。 ; 取調べ・自供 : 当初、林は取り調べにおいて「警察とオウム真理教との戦いだ」と発言し、また断食を宣言するなどの戦闘的姿勢があった。しかし、5月6日に別の事件での取り調べを終えたあと、突然「私がサリンを撒きました」と述べ、地下鉄サリン事件の全面自供を始めた。取り調べを担当していた警察官たちは、林が地下鉄サリン事件に関与していたことを全く予想しておらず、「先生、嘘だろう」「誰かをかばっているの」と問い直した。〔1997年10月7日における林郁夫の公判での証言による〕 :また公判中、被害者の駅員が自分が撒いたサリンを片付けたために死亡したことについて「私は本来人を助ける医者でありながら、そういう人達に比べて」と号泣した。 : その後、捜査に協力的な点や、公判の中で、遺族・被害者側が「改悛の情がある」として、必ずしも死刑を求めなかったこと、サリン散布の実行犯であることを捜査側が関知していない段階で自ら告白した点、罪の呵責に喘いでいる点などを考慮し、検察は林の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになったことが自首に相当するとの判断を下した。このため検察は死刑ではなく無期懲役を求刑したが、無差別大量殺人事件の実行犯に対し検察側が自発的に求刑を軽減するのは極めて異例のことである。 ; 地裁判決 : 1998年5月、東京地裁で無期懲役の判決が下る。検察側も林側も控訴せず、一審で確定した。現在、千葉刑務所に服役中。その後、地下鉄サリン事件の他の4人の散布役は全員死刑が確定したことから、地下鉄サリン事件の散布役の中ではただ一人死刑判決を免れた人物になった。 : 死刑を免れた理由として山室惠裁判長は「自己の記憶に従い、ありのままに供述していることが認められる。極刑が予想されるなか、臆することなく決定的に不利な事項にまで及んでおり、覚悟したうえでの胸中の吐露であって、被告人の反省、悔悟の情は顕著である。」とした。その他、麻原が科学技術省の4人以外に治療省の林を実行犯に選んだことを「いささか不自然であり、被告人の信仰心に付け入った利用」とし、麻原の指示がなければ実行役にはならなかったとした。 : 『文藝春秋』に手記を発表する。その中で、口止め及び麻原が持つ学歴コンプレックス、阿含宗でのキャリアの違いなどから、自分に敢えて汚い仕事をやらせたと解釈している。手記の印税等は被害者への救済金に充てられている。 : 後に、サリン事件で亡くなった被害者の名前を毎日念仏で唱えていると報道された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林郁夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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