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林 閬苑(はやし ろうえん(りょうえん)〔「りん りょうえん/ろうえん」とも。〕、生卒年不詳〔生年は寛保2年(1742年)から寛延2年(1749年)の間、卒年は安永9年(1780年)(『蒹葭堂日記』)から天明7年(1787年)までと推定される。〕)は、江戸時代中期の絵師。 名は新・又新、字は日新、号は閬苑のほかに章齢・蟠龍洞・筆飛将軍など。通称を秋蔵(秀蔵とも)・閬蔵。大坂の人。 == 略伝 == 幼少より画を好み、長じて池大雅の高弟・福原五岳に師事する。このときの同門・黒田綾山と画友となる。東東洋や木村蒹葭堂、維明周奎などと交友。安永2年(1773年)から4年間、維明に請われて京都相国寺にある狩野孝信の障屏画修復に携わり、寺院に収蔵される名画を実見し研究。また堺の豪商の収蔵する中国・明の画を臨模して画業を研鑽。大坂道頓堀幸橋付近に居を構え、「筆飛将軍」と自称し、「唐画師」として活躍。「閬苑」と言う聞きなれぬ言葉は「仙人の居所」を意味し、『続仙人』や『宣和画譜』など絵師と関わりある中国書物に出典が求められ、閬苑の中国志向が伺える。しかし、40歳未満で夭折。一説に、閬苑はその一生をほとんど自己の研鑽に費やし、中国の風物に接しようと渡航を願いでるが許されず、遂には憤死したとも言われる〔『書画珍本雑誌』第二巻第四号「閬苑 竹鶴図」付記略伝より。〕。 山水は大胆で自由な筆遣いで中国風に描き、花鳥画・人物図は沈南蘋の影響から緻密で濃密な色彩を特徴とし、美人画を得意とした。岡本豊彦によると、閬苑は和泉国の豪家にある明代絵画に学び、着色の美人画は仇英に、墨画の人物画は張平山に似ていると評している。東東洋の言では、安永2年(1772年)頃閬苑は30歳ほどで、青墨の使い方を学んだという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「林ロウ苑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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