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枝川 弘(えだがわ ひろむ、1916年11月20日 - 2010年7月10日)は、日本の映画監督である〔枝川弘氏死去 映画監督 、47NEWS、2010年7月20日付、2012年4月26日閲覧。〕〔''枝川弘''、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月26日閲覧。〕〔''枝川弘''、日本映画データベース、2012年4月26日閲覧。〕〔''枝川弘''、キネマ旬報映画データベース、2012年4月26日閲覧。〕〔''枝川弘''、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月26日閲覧。〕〔枝川弘 、日本映画監督協会、2010年7月30日付、インターネット・アーカイブ、2012年4月26日閲覧。〕。現代劇を専門とし、1963年以降に手がけたテレビ映画『図々しい奴』『おくさまは18歳』『アイアンキング』の監督として知られる〔。 == 人物・来歴 == 1916年(大正5年)11月20日、大阪府に生まれる〔〔。 1939年(昭和14年)、日本大学法文学部芸術学科(現在の日本大学藝術学部)を卒業し、日活多摩川撮影所に入社する〔。1940年(昭和15年)には軍隊に徴収され、1945年(昭和20年)に復員、同撮影所の後進である大映(現在の角川大映撮影所)に復職した〔。同撮影所では、田中重雄に師事した〔。 1950年(昭和25年)4月9日に公開された、今村貞夫のラジオ映画が製作した『人喰い熊』を監督している〔〔〔。当時の評判はあまり芳しくはなかった〔『映画年鑑 1952』、p.78.〕。 その後、大映東京撮影所で、同い年の鈴木英夫の助監督をもっぱら務め、1951年(昭和26年)3月3日公開の『恋の阿蘭陀坂』ではチーフ助監督を務めている〔鈴木英夫〈その6〉対談:鈴木英夫×木村威夫 、木全公彦、マーメイドフィルム、2012年4月25日閲覧。〕。1954年(昭和29年)4月14日、満37歳のときに『五ツ木の子守唄』で再び監督としてデビューを果たしている〔〔〔〔。 1962年(昭和37年)12月26日、満46歳のときに公開された『団地夫人』が、枝川にとって、大映東京撮影所が製作した最後の劇場用映画となり〔、翌年1963年(昭和38年)には、大映テレビ室(現在の大映テレビ)が製作する『図々しい奴』を始めとするテレビ映画に専念する〔〔''枝川弘''、テレビドラマデータベース、2012年4月26日閲覧。〕。 1964年(昭和39年)、大映を退社する〔。満49歳を迎える1965年(昭和40年)からは、大映テレビ室のみならず、国際放映、日活、宣弘社、C.A.Lといった製作会社で現代劇を中心に手がけた〔。同年には、テアトル・プロダクション(現在のメディアボックス)が製作し松竹が配給した『呼んでるぜあの風が』で、劇場用映画に復帰している〔〔〔。 1975年(昭和50年)12月25日、満59歳のときに女優の志賀眞津子(当時50歳)と結婚する。 満63歳を迎える1979年(昭和54年)10月30日から1980年(昭和55年)3月15日にかけて、テレビ朝日で放映された『けっぱれ!大ちゃん』が、最後の連続テレビ映画として記録されている。 2010年(平成22年)7月10日午前9時5分、東京都三鷹市内の病院で死去した〔。満93歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「枝川弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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