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柏崎 克彦(かしわざき かつひこ、1951年9月16日 - )は、日本の柔道家(8段)。岩手県久慈市出身。 1981年の世界選手権で優勝し、現在は国際武道大学にて後進の指導に当たる。現役時代は小躯ながら合理的な寝技を使い、柔道界のみならず格闘技界において「寝技の代名詞」として、その名を知られた。 == 経歴 == === 学生時代 === 1951年、三船久蔵十段の生誕の地である縁から“柔道の町”として知られる岩手県久慈市に生まれる。両親をはじめ、親族の多くが教員という家柄だった。 小学5年生より、地元の三船十段記念館で柔道を習い始める〔。若い指導者の久保正太郎が率いる三船記念館の少年部は、県内外に知られた強豪クラブであった〔。 柏崎は、その小柄な体格ゆえ“ニワトリ”とあだ名され、本人曰く柔道の試合で勝った記憶は殆ど無いとの事〔。身体が小さい子供の多くはこの体格の壁にぶつかり、柔道が嫌いになる事が多いが、当時の柏崎はそれでも柔道を嫌いにならなかった。当時を振り返り柏崎は、「久保の指導方法が巧みだったお陰」と語る〔。 また久保は敬虔なクリスチャンで、柏崎をはじめ多くの道場生は、道場の稽古だけでなく老人ホーム訪問や歳末助け合いに参加するなどした〔。 市立久慈中学校を卒業し県立久慈高校に進学すると、柏崎は稽古の軸足を三船記念館から高校の柔道部に移す。同校柔道部の監督は、当時赴任してきたばかりの和山勇人(元・国士舘大学主将)で、三船記念館の久保の指導とは全てが対照的だった〔。入部早々五厘刈りの憂き目にあった柏崎は、稽古でも和山からしばしば殴られたが、次第に頭角を現し、高校3年次には個人戦でインターハイ出場したほか、団体戦でも県で準優勝の好成績を残す〔。 なお、高校時代の半ばまで背負投を得意としていた柏崎だが、高校時代に3度も右肘を骨折したため背負投を諦め、代わりに巴投を磨き上げた〔。巴投を覚えると、そこから寝技への連絡が不可欠となり、次第に寝技に固執するようになった〔。こうして、後に“寝技師”と呼ばれる柏崎の基礎は、文字通り「ケガの功名」という形で築かれていった。 高校を卒業すると、東海大学へ進学。インターハイ出場経験があるとはいえ、推薦ではなく一般入試での入学だった〔。 入学すると同時に強引に柔道部の合宿所に転がり込むが、身長167cm、体重57kg(当時)の柏崎は柔道部で相手にされず、1年で合宿所を追い出される〔。東海大学柔道部の監督(当時)で門下から多くの世界チャンピオンを輩出した佐藤宣践も、「私には人を見る目があるが、柏崎だけは見えなかった」と後に語っていたという〔。 大学2年生からは普通の下宿所から柔道部に通い続け、自作の技術書〔自身の研究した技術をノートに記録したもので、後輩に撮影してもらった写真に手書きの解説が加えられたもの。10年以上後に出版する事となる著書は、この技術書がベースになっている。〕や、大会前には自身が勝ち上がっていく様子をシミュレーションした『柔道ノート』〔柏崎が高校時代から続けている習慣の1つ。大学時代には監督の佐藤宣践に添削してもらった。〕を作成するなど、人一倍の努力と研究・工夫を惜しまなかった〔。 3年生になると、ソ連(現・ラトビア)のリガで開催されたサンボのヨーロッパ選手権に出場し、決勝戦で地元選手のホシュに敗れるも、準優勝という成績を残す。これが、柏崎にとって初めての国際舞台だった〔。また佐藤の「柔道に役立つものなら何でもやれ」という指導方針のもと、サンボ以外にもレスリングや駅伝等を経験〔。 大学4年次には団体戦でついにレギュラーの座を射止める。1974年春、同大学を卒業。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柏崎克彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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