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柳 ジョージ(やなぎ ジョージ、本名:柳 譲治、1948年1月30日 - 2011年10月10日)は、日本のミュージシャン。神奈川県横浜市南区南太田出身〔自著『ランナウェイ』 集英社文庫・1983年・P.42-45〕。横浜市立蒔田中学校、日本大学藤沢高等学校、日本大学法学部卒業。妻は元女優の浅野真弓。 == 経歴 == 父親は元陸軍軍人で、両親は戦時中広島市内で被爆〔。終戦後父親は日清製粉に勤めるサラリーマンになった〔。柳いわく「典型的な中流階級」の家に生まれ育つ。中学時代、ザ・ベンチャーズに影響されギターを始めた。日大在学中は全共闘による学生運動が最も激しかった頃。中でも日大闘争は最も荒れて学園封鎖などで行くにも行けなかったが、柳自身「自分はノンポリでした」と話しており、これらの紛争には参加していない。この頃クリームなどニューロックに影響され、在学中の1969年、ブルースロックバンドパワーハウスを陳信輝らと結成した。解散後一旦大学で勉学に励み半年遅れで卒業。卒業直後の1970年9月、ザ・ゴールデン・カップスの後期メンバー(ベーシスト)として加入。しかし同年、アイ高野、デイヴ平尾、ミッキー吉野らと大麻取締法違反で逮捕された。 ただし、この出来事で少なからず傷つき、「こういう時は全員、自分がかわいくなる。仲間さえ売ってしまうし、友情も何も無くなる」ことに気が付いた柳は、これ以降、新しいバンドを組む時は必ず、「クスリなんかやるくらいならバンドは辞めてくれ」と、最初にメンバーに申し渡すことを自分に課している。「酒で飲んだくれて迷惑かけてくれるほうが、よっぽどマシだから」との考えに基づいている。(『敗者復活戦』小学館) カップス解散後、フライド・エッグを経て、一旦会社員に転ずるも、友人の成毛滋に誘われて渡英し、現地のミュージシャンに接し、再び音楽活動の再開を決意。 帰国後の1975年、広島でバンド活動をしていた上綱克彦、石井清登、宮田和昭、四ツ田ヨシヒロと知り合い、「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成〔青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ & レイニーウッド - 広島FM 食卓ON楽 〕。(のちに宮田に代わりミッキー山本、サックスの鈴木明男が加入)バンド名の「レイニーウッド」は、柳がロンドンのハイドパークで見た霧に煙る森から名付けた。 1978年、「柳ジョージ & レイニーウッド」がアルバム『TIME IN CHANGES』で、デビュー。 R&Bをベースにした音楽性は、当時としては異端であったが、1979年に萩原健一主演のテレビドラマ「死人狩り」のテーマ曲に使われた「雨に泣いてる‥」が大ヒット。その後も「さらばミシシッピー」、「青い瞳のステラ 1962年夏‥」等のヒットを飛ばした。 1979年の4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』はオリコンアルバムチャートで初登場1位を獲得するなど高い人気を得た。ここからシングルカットされた「微笑の法則」が資生堂のCMソングになり大ヒット。 1980年12月、日本武道館で初のコンサート。 1981年末に日本武道館にて柳ジョージ&レイニーウッドを解散。以後はソロアーティストとして活動を継続。 1982年12月、全国5ヶ所でレイ・チャールズとジョイント・コンサートを行う。(井上堯之の話によると、柳は緊張でガチガチだったという) 1984年7月、東京・NYフレンドシップのイベント「ハーレム少年聖歌隊 With 柳ジョージ」を全国5大都市にてコンサート。またその年には女優の浅野真弓と結婚した。 2005年4月、「24年目の祭り」と題して、「柳ジョージ&レイニーウッド」再結成。 2008年7月、「柳ジョージ&レイニーウッド」としてフジロックフェスティバルに出演。 2011年10月10日、腎不全のため横浜市内の病院で死去〔“和製クラプトン”柳ジョージさん死去…63歳 スポーツニッポン 2011年10月14日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳ジョージ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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