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柳下 正明(やなぎした まさあき、1960年1月1日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。 2012年より4年間アルビレックス新潟監督を務めた。 == 来歴 == 静岡県立浜名高等学校3年次に第56回全国高校サッカー選手権に出場。優勝候補と目されたが、1回戦で同じ優勝候補の北陽高校にPK戦の末敗退。東京農大時代には地元開催であった1979年の第2回FIFAワールドユースに日本代表として3試合に出場した。卒業後はヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)でDFとして活躍。1982年の天皇杯優勝、1987年の日本リーグ優勝などに貢献した。本人は現役時代の自分を「もともとは激しいプレーヤー。だんだん経験を積み、また体もそんなに大きくなかったので、徐々にポジショニングや予測を生かしてボールを奪うという守備をするようになった」と回想している〔2006年のスポーツナビでのインタビュー〕。なお、中山雅史は現役最末期の柳下とプレーした経験がある。 引退後は若手育成部門や、ハンス・オフト政権時代のトップチームコーチとしてジュビロ磐田のコーチを歴任、2000年9月に鈴木政一ヘッドコーチの監督昇格に伴いヘッドコーチに就任。鈴木監督を支え、2001年1stステージ、2002年1stステージ、2ndステージ(2002年は初の両ステージ)優勝を成し得た。 2003年1月に鈴木政一監督の勇退に伴い、監督に昇格。戦力低下がささやかれる中若手の登用を行い、優勝争いに絡んだものの、この年の成績は1stステージが2位、2ndステージが3位であった。年末から元日にかけて行なわれる天皇杯直前に、フロントとの強化方針の違いなどを示唆するコメントを残して天皇杯限りで退任を宣言。選手たちの慰留も振り切り、決勝戦で優勝という結果を残してヤマハ時代から在籍した磐田を去った。 若手選手育成の手腕を買われ、2004年からは、財政難により自前の若手選手育成によるチーム力強化を掲げたJ2コンサドーレ札幌の監督に就任。この年は最下位に終わったが、天皇杯ではベスト8に進出した。翌2005年はシーズン最終盤まで3位争いに絡むなど、着実にチームを進化させている。そのため当初の契約期間は2004年2月1日から2006年1月31日迄の2年契約であったが、2007年1月31日まで延長された。しかし2006年シーズンも最終的には昇格争いから脱落、11月22日コンサドーレ札幌は本人の申し出で契約を延長しないと発表、2006年度シーズン限りでの退団が決まった。その年の天皇杯では千葉や新潟、甲府というJ1勢を次々破り、クラブ史上初のベスト4まで進出した。 2007年はスカパーのサッカー解説者や静岡産業大学サッカー部のコーチとして活動していたが、同年9月に磐田にコーチとして復帰。2008年からはトップチームコーチとサテライトチームの監督を兼任し、内山篤監督が途中解任された際には、オフト新監督がチームを把握するまでのつなぎとして、1試合のみ実質の監督代行として指揮を執った(オフトはベンチ入り自体はしたため、正式に代行職を務めたわけではない)。 2009年より退任したオフトの後任として2度目となる磐田監督に就任。2010年にはナビスコカップ優勝を果たした。2011年、目標であるACL出場権を逃し、契約満了で退任した。 2012年6月より、アルビレックス新潟の監督に就任〔柳下正明監督 就任のお知らせ アルビレックス新潟公式サイト 2012年6月11日 2013年1月12日配信〕。シーズン途中での監督就任は自身初となった〔柳下正明監督就任記者会見リポート 2012年6月12日 2013年1月11日配信〕。就任当初J2降格圏内の17位に低迷していた新潟では堅い守備をより堅固に強化し、攻撃面では簡単にボールを失わないことを強調してポゼッションを向上させ、最終節でのJ1逆転残留に導いた〔アルビレックス新潟モバイルサイト シーズンオフ特別企画 柳下正明監督インタビューより〕。2013年も新潟の監督を続投〔柳下 正明監督 続投のお知らせ アルビレックス新潟公式サイト 2012年12月2日 2013年1月12日配信〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳下正明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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