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柳井 政雄(やない まさお、1908年〔『週刊現代』2014年8月30日号、藤岡雅「ユニクロ・柳井が封印した『一族』の物語」〕2月15日〔柳井政雄『同和運動の歩み』p.100。〕 - 1998年〔)は部落解放運動家、実業家、政治家、ヤクザ〔。ユニクロの前身となった小郡商事の代表者〔。全日本同和会初代会長、同山口県連合会会長、山口県部落対策審議会委員〔柳井政雄『同和運動の歩み』著者略歴。〕、総理府同和対策協議会ならびに同和対策審議会委員〔、山口市議会議員、山口県議会議員〔、田中龍夫後援会会長などを歴任した〔。 ユニクロ会長の柳井正の父である柳井等の兄にあたる〔。また、政雄の叔父の柳井傳一は全国水平社の創立大会の参加者で、みずから創設に尽力した山口県水平社の聯盟本部役員を務めた〔。 == 経歴 == 山口県吉敷郡小郡町〔(現・山口市小郡)で牛馬商の柳井周吉の四男として生まれる〔〔出生地は被差別部落ではなかったとされる。柳井、p.115を参照。〕。父は山口県吉敷郡陶村(現・山口市陶)の生まれであった〔。 尋常高等小学校を1年で中退し父の手伝いを始めたが、やがて京都の食堂で板前として働く兄を頼って上洛、自らも同じ食堂の手伝いを始めたが、食堂の主人のシェパードが向かいの洋服屋の秋田犬に咬まれて深傷を負ったため、刺身包丁で秋田犬を傷つける事件を起こし、故郷へ戻される〔。宇部市の炭鉱で働くうち、ヤクザの世界に入る〔。1931年5月には、現在の下関市にあった小月競馬場に子分を連れて殴り込みをかけ、抗争相手のヤクザの所有する馬2頭を1尺5寸の日本刀で叩き斬った後、敵方に取り囲まれ、その場で切腹して病院に運ばれる事件を起こした〔『防長新聞』1931年5月25日付。〕〔。この事件では子分たちに逃げられたため、敵方のヤクザに助けられた〔。 1932年〔柳井、p.106。〕、刑務所からの出所を機にヤクザから足を洗い、実業界へ転進〔。叔父の柳井傳一から500円の出資を受け〔柳井、p.107。〕、喫茶店を買い取って木賃宿を始めた他、材木商や馬車を使った運搬業などに事業を拡大して成功し、1946年には日本社会党の公認で〔柳井、p.109。〕山口市議に当選する〔。このとき、政雄に選挙演説の内容や、演説するときの目の位置や間の置き方を懇切丁寧に教え、選挙運動を強力に支えたのも叔父の柳井傳一であった〔柳井、p.110。〕。ヤクザにも警察にも顔が利いたため重宝がられ、「大政(おおまさ)」と尊称され、地元紙で「太っ腹と侠気」の人と報じられた〔。 もともと父親の影響で水平運動に否定的な考えを持っていたが、山口市議当選後、下関の山本利平〔のち部落解放全国委員会書記長。〕と山口市の金本謙次〔のち部落解放全国委員会副委員長。〕の誘いを受け〔柳井、p.112-115。〕、みずからの事業による利益を山口県の被差別部落の生活向上のために注ぎ込むようになり、1947年5月〔柳井、p.271。〕には部落解放全国委員会の山口県連合会を結成し、みずから委員長となり、山口県知事(当時)の田中龍夫と交渉して山口県の同和予算獲得に成功した〔。 一時期は松本治一郎から「わしの後を継ぐのは柳井だ」〔柳井、p.120。〕と期待されていたこともあるが、1952年頃、日本社会党の方針である酒・煙草への課税に反対し、同党から除名処分を受ける〔柳井、p.127。〕。さらに1953年7月〔、衆議院選挙で部落解放全国委員会の中央本部の指令に反して自由党候補を応援し、中央本部から除名処分を受ける〔部落解放同盟山口県連合会 山口県の部落問題について 〕。このため、同年12月、独自に山口県部落解放連合会を結成した〔。このとき柳井を追放する立場だった上杉佐一郎(のちの部落解放同盟委員長)は、後年「考えてみると追い出さなくてもよかった」と発言している〔上杉佐一郎『連帯をもとめて: 上杉佐一郎対談集』(解放出版社、1986年)p.93。〕。 1960年5月、佐藤栄作の要請により、自民党系の同和団体である全日本同和会を結成し、みずから会長に就任〔。同和対策事業特別措置法の成立に尽力し、総理府同和対策協議会の総会では、零細中小企業救済のための同和金庫の設立を訴えた〔。部落差別への糾弾に対しては「個人の場合はあまり相手を追い込むと、悪かったという反省は吹き飛んで、『憎しみ』のみがいつまでも心のなかに残って、真の部落解放につながらない」〔柳井、p.126。〕と主張し、「相手に反省をもたせる余裕を与える」〔柳井、p.156。〕ことが真の啓発に資すると標榜していたが、ある市議がゴルフ場で部落差別的な発言をした折には激怒し、その市議の背中をゴルフクラブで殴打したこともある〔。 実業家としては、小郡商事(ユニクロの前身となった企業)や柳井兄弟商會、小郡木品製作所などの代表を務めた他、質屋を経営し、そこで親族たちを働かせていた〔。親族の生活を手厚く支援し、甥の柳井正もまた柳井政雄の顔により、田中龍夫の事務所を通じて上京時の下宿の世話を受けた〔。1972年には、柳井正を小郡商事に迎えている〔。 1977年3月、みずからも名を連ねた山口商業企業組合を通じ、同和高度化資金から土地代2億円の融資を受け、山口市内に高級ホテルの建設を計画したが、山口商業企業組合の理事長は同和高度化資金融資制度の対象となる人物ではなく、また当該事業そのものが同和対策事業と無関係であったため、この融資は不正行為として問題になり、建設計画は中止を余儀なくされた〔中原京三『追跡・えせ同和行為』p.22-25〕。 また山口観光ショッピングセンターの建設計画を立て、1978年12月に同和高度化資金から土地代2億2000万円の融資を受けたこともあるが、この土地は1976年に柳井政雄が同和高度化資金から融資を受けて買った土地であったため、この行為も不正融資として問題になった〔。1979年7月〔柳井、p.275では1978年6月20日の全日本同和会第19回定期大会で「全国組織の会長、松尾正信へ替わる」と記述されている。〕、全日本同和会第20回大会でこれら一連の不正融資の責任を追及され、会長を辞任した〔。後任が松尾正信(北九州土地転がし事件の当事者)である。これに先立つ1978年3月16日には、福田雅子を中心とするNHK大阪放送局スタッフの肝煎りにより、部落解放同盟の上杉佐一郎や全国部落解放運動連合会の岡映と共に1時間の鼎談をおこない、この録画はNHK教育テレビで放映された(司会者は磯村英一)〔磯村英一『同和問題と同和対策』p.2, 18〕。 なお、柳井正は親族の結婚式で柳井政雄と同席したこともある他、1998年には柳井政雄の葬儀にも出席している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳井政雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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