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柳亭 種彦(りゅうてい たねひこ、天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))は、江戸時代後期の戯作者。長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。 == 生涯 == 江戸の本所に生まれ、間もなく御徒町へ移った。幼名は主税、字は敬之。食禄200俵の旗本の、一人っ子だった。通称彦四郎、寛政8年(1796年)14歳のとき、父甚三郎が没し、家督を継ぎ、高屋彦四郎知久を名乗った。食録二百俵。別号、足薪翁、木卯、偐紫楼。 頑健ではなく、「文武」のうちの「文」にいそしみ、少年期から漢籍に通じた。歌舞伎、浄瑠璃を好み、それらの脚本を収集し研究し、井原西鶴・近松門左衛門に傾倒した。狂歌を、はじめ唐衣橘洲に、次いで宿屋飯盛こと石川雅望に学んだ。雅望は国学の師でもあった。川柳の、三世川柳(1776 - 1827)の社中に入った。さらに、23歳のころに妻とした勝子は、国学者加藤美樹の孫で、加藤家の蔵書を自由に読めるようになった。俳書を集め、漢画を習ったことも、のちの出版に役立った。凝り性で詮索好きの、学究肌だった。 狂歌の狂名は、はじめ『柳の風成』、のちに『心の種俊』。『柳亭種彦』のペンネームは、これらから来る。 文化3年(1806年)24歳のとき、読本『阿波の鳴門』ほかを、翌年、唯一の洒落本『山嵐』ほかを出版して、烏亭焉馬、山東京伝、山東京山、葛飾北斎、歌川国貞らと交わるようになったが、文化8年(1811年)の『鱸庖丁青砥切味』以降、合巻に力を注いだ。 文化12年(1815年)(33歳)から天保2年(1831年)(49歳)にわたって中編集、『正本製』(しょうほんじたて)全12編を刊行した。人気演目の翻案を「正本(芝居の脚本)風に仕立てた」シリーズで、国貞の挿絵とあいまって、全巻歌舞伎趣味に満ち、大いに迎えられた。各編の副題はつぎ。なお、版元は旧知の永寿堂西村屋与八だった。 :初編:楽屋続絵 お仲清七/2編:曾我祭 小稲判兵衛/3編:当年積雪白標紙 顔見世物語/4編:昔模様女百合若 お菊幸介/5編:吾妻花 双蝶々/6編:難波花 蝶の後追 与五郎新狂言/7編:立物抄 一年がわりお染久松/8、9編:立物抄 お染久松物語/10 - 12編:(夕霧 伊左衛門・花咲綱五郎) 『正本製』の先が見えた文政12年(1829年)(47歳)から、長編、『偐紫田舎源氏』を刊行し始めた。絵師は国貞、版元は鶴屋喜右衛門。キャラクター商品が出回るほどの、ベストセラーになった。 『田舎源氏』が軌道に乗った天保5年(1834年)(52歳)から、『邯鄲諸国物語』の刊行を始めた。国内諸国を舞台にした伝奇物語集で、絵師は国貞、版元は栄久堂山本平吉だった。 天保7年(1836年)(54歳)のとき、浅草堀田原(現在の蔵前3丁目)に『偐紫楼』を新築し、長年の御徒町から移転した。 天保13年(1842年)(60歳)、水野忠邦の天保の改革により譴責され、間もなく没した。自殺説もあるが、「ショックによる病死」説が多い。譴責は直接的には、『田舎源氏』への言いがかりだった。『邯鄲諸国物語』も中絶した。 芳寛院殿勇誉心禅居士。初め赤坂の浄土寺に葬ったが、明治40年(1907年)、東京府荏原郡(現、品川区荏原一丁目)の浄土寺墓地に改葬され、現存している。 種彦は、まず合巻作者とされているが、学識の実った考証的な随筆類も、少なからず遺している。『柳亭記』、『柳亭筆記』、『足薪翁記』などは、刊行年次が確認されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳亭種彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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